Zoe(ゾーイ)との人生



(ウイリアムス症候群児を持ったある母の展望)

LIFE WITH ZOE

A mother's perspective on having a child with Williams Syndrome

Ingrid Schubert



私の妊娠は、約2週間予定日を過ぎ、その間7回陣痛が来たほかは特に変わったこ とは有りませんでした。私はZoeという女の子を正常分娩で出産しました。唯一混乱があ ったのは、へその緒が首に二回巻き付いていたのをほどき、吸引と酸素吸入をしたことで す。彼女のアプガースコアは5:7:9でした。出産時体重は3,540グラム、身長は50cm で頭の周囲は32.5cmでした。出産後、私は医者と看護婦から胎盤の事について漏れ聞き ました。「石灰化した塊」が見られると言っていました。Zoeは首に巻き付いたへその緒 による合併症は無いことははっきりしていると言われました。小児科医は娘に心雑音があ り、継続的なフォローが必要と述べました。

この子は私にとって二人目の子で、生まれた後4日近く体全体が腫れていることに 気づいた事を覚えています。また「まるぽちゃのほっぺ」に大きなあごをしていたのにも 気づきました。Zoeは最初の数週間は良く寝ていましたが、おっぱいを強く吸う事は有り ませんでした。ミルクが十分あるおっぱいを空にしてくれなかったので、乳腺炎が進行し てしまいました。Zoeは赤ん坊の頃いつも大量のおしっこをし、おむつかぶれになりやす かった事が心に強く残っています。彼女は「ホットベビー」でした − 発汗しやすく、耳 の後の他にも、ひじの内側、ひざの裏側などに湿疹タイプのできものを作っていました。 最初の5週間は比較的平穏なものでした。− しかしそれから − 大混乱が起きました!!

私は昼も夜も理由無く泣き叫ぶこの子を抱え − 彼女をなだめる術はありませんで した。赤ん坊は眠りから覚めさせるようなもの − 通行車両、私のあくび!テレビ等 − が なければ一時間だけは寝てくれました。子どもの聴覚過敏はこの早い時期にすでに明らか になっていたのです! 子どもが起きた時、なだめられない泣き叫びが再びはじまるのでし た。この泣き叫ぶ赤ん坊を一時的に静かにさせられる時は、私が自動赤ちゃん用ゆりかご を動かし続けている間だけでした。これが約1年続きました。その上、3歳の歩き始めの 子どもの世話で体力を使い尽くし、夜には引き続き彼女の泣き声に眠れず、時々ミルクを 与え、げっぷさせ、着替えさせ暖かいベッドに寝かせながら午後10時頃に寝てしまい、3 時間後に目覚めた時は、まだ赤ん坊の泣き声が聞こえていました。かすれきった声で!!彼女 の授乳パターンはひどいものでした。−1回に取る量は非常に少なく、普通粉ミルクで育 てる事にしました。それが解決策であると思いました、が、そうではありませんでした! 子どもは一度にたった30mlのミルクしか受けつけず、いっぱいに入ったボトルを飲ませ るのに何時間もかかりました。小児科医は「Prosobee」豆乳を与えるよう助言してくれま した。子どもの授乳と短気な所は少しばかり改善されました。体重増加はいつもゆっくり でしたが、それでも徐々に増えており、10パーセタイルの範囲に入っていました。粉ミル クにしたあと気付いたときには、短期間に体重増加が減った事に気づきました。その後ゆ っくりと増えていきましたが、10パーセンタイルより低いレベルに留まりました。後から 考えると、Zoeは粉ミルクよりも母乳で育て続ける方がよかったかもしれないと感じまし た。短気で気難しい赤ん坊の時期は続きました。また幼い時期からひどい便秘がちなこと に気づきました。− 固く、小石のようなので出す時に痛みを伴いました。定期的に薬を与 える必要がありました。またZoeには「マグネシア乳(緩下剤)」をほ乳びんに混ぜるの が最も良い方法である事が分かりました。

この始めの頃は最悪の悪夢であるように、私の記憶にはっきりと残っています。赤 ん坊はずっと泣いているので、どこにも連れて出る事はできませんでした。友達を迎える ことさえできませんでした。−だれも赤ん坊の間断ない泣き声を我慢するとはできません でした。夜には私たち夫婦はテレビのスイッチを切り、全ての電気を消し、7時半にはつ ま先歩きでそっとベッドへ行きます。眠りを邪魔しないで数時間が過ぎることを期待しな がら。私は罪の意識を感じました。しかし、この時期の間は神が泣き声から猶予をあたえ てくれるよう祈っていた頃だったと認めるに違い有りません。

私はよく小児科医や相談婦、心理学者のところへZoeと一緒に訪れました。しかし − この赤ん坊がとても気難しい事を、誰も本当に理解してくれませんでした。(あるいは 私を信じてくれなかった?)あらゆる検査をしました。染色体検査、甲状腺機能検査、骨 年齢スキャン等結果は正常と返ってきました。心雑音は「無害の雑音」との診断でした。 かかりつけの小児科医はそれでもやはり、顔の特徴が普通でないという何かを感じていま した。しかし、それがどうなのか指摘することはありませんでした。そこで私は彼の意見 を発達小児科医に問い合わせてみました。Zoeはその時二歳半になろうとしていました。 小児科医は、娘がウイリアムス症候群だと思うと言いました。私は大変ショックを受け泣 いていたので、その事を強く追求しなかったのですが、その症候群がどんなものであり、 娘にどんな意味があるのかを説明を受ける時間をとれませんでした。彼は障害サービス委 員会に問い合わせてみるべきといいました。(西オーストラ州パース市のイラベーナとい うところにあります)私は家に帰って荒れました。−「ウイリアムス症候群って何?」、 「一体なにが起こっているの?」、「どこに助けを求めればいいの?」、「将来どうなる の?」− あらゆる事が頭をかけめぐりました。そして私の手には答えも何も無く、症候群 についての知識もなく、情報を得るために頼れる人はだれもいませんでした。

最初の診断から3ヶ月経ち、ついに障害サービス委員会の医師に診てもらう約束を とりつけました。私たちは病気の説明を受け、症候群の医学的資料を1ページもらいまし た。そのチームは他のウイリアムス症候群児の女児を持つ家族と会うアレンジさえしてく れました。障害サービス委員会のチームと最初の約束を取るまでの3ヶ月間、私はウイリ アムス症候群が何であるかを知るため参考文献や、大きな病院付属の医療図書館に行って 徹底的に調べました。症候群の本を最初に開いた時、私は小さい女の子の写真を見つけま した。−それは私を徹底して打ちのめしたのでした。なぜなら、それはまさしく私の子ど もにそっくりだったのです!!!

それ以来、突然私と我が子に「夜明けがきた」ようでした。我が子は知的障害視で あるのです。それ以前は私は混乱していました。−子どもは私には正常に見えていました。 数々の彼女の出来事や発達の遅れは普通ではないと分かってはいたけれど。しかし、子ど もはそのほとんどの日々を泣くのに費やしていて、正常な発達ができないことを私は事実 として理解したのです。診断を受けることは結局助けになり、私の子どもの今の困惑した パズルの答えでした。彼女は自分の好きなように行動できなかったということがわかり、 慰めとなりました。なぜなら、ともかく「私は悪い母親!」だったから。ジグソーパズルは 今完成したのです.........。診断後もっと早くウイリアムス症候群のサポートグループとコン タクトをとっていればよかったと思いました。はじめの診断のとき、私たちはオーストラ リアで唯一のウイリアムス症候群児を持つ親だと思っていたのです。

私は1987年に「アクティブニュース」という雑誌に、Zoeとわたしの症候群につい ての経験を書きました。彼女の状況がどんなものであったかを記述しました。私はその記 事を読んだ5つの家族とコンタクトを取り、彼らの子どもがウイリアムス症候群であると 感じました。−(そのうち何人かはその時点で診断を受けておらず、いまだに受けていな いのです!)この事は、私に正しい情報をできるだけウイリアムス症候群児のいる家族と分 かち合いたいと考えるようになりました。−その結果西オーストラリアにウイリアムス症 候群ファミリーサポートグループが組織されました。私はニューサウスウエールズ州とビ クトリア州にすでにサポートグループがあったことに驚きました。イギリス、アメリカ、 カナダ、ニュージーランド等にも大きな支援団体がありました。ついに私たちは情報にあ りつけたのです!!!

Zoeのあらゆる出来事(発育)は遅いものでした:9ヶ月で起き上がり、12ヶ月で はいはいをし2年4ヶ月で歩き出しました。歩き始めた時、まるで彼女はすでに歩き方を 知っていたかのように歩きました。しかし自信のあるような歩きではありませんでした。 時がたつにつれて彼女は手がかからなくなり、とてもすばらしい日々を送るようになりま した。他の人が私に「お嬢さんはおいくつですか?」とたずねる度に、私をがっかりさせ られたものでした。私が年齢を言うといつも決まって「えっ! なんて小さい子なんでしょ う!!」といわれました。傷つくことを感じて、罪の無いうそをつき、実際より幼い年齢を答 えれば、だれも何も言わなかったでしょう....

私はZoeが触覚について新しい反応を示すことに気が付きました。例えば、彼女が はってタイルからカーペットに移動したとき ー とてもたじろいでいます。ピクニックに 行けば、草の上に敷いてあるピクニック用シートに手触りの違いのせいか、思い切って座 ることができません。砂浜での最初の経験は記憶に残るものでした。− 彼女は泣いて、足 を奇妙に感じる砂の表面につけることをとても嫌がっていました。Zoeは(今でも尚)頻 尿でした。長い間我慢できないので、いつでもトイレを探していました。(特にひどかっ たのは炭酸のソフトドリンクを飲んだ時)彼女は5歳でトイレトレーニングできました。 が、まだ12歳までは夜にベッドを濡らすことがありました。

学習についてはとても話すのが遅く、5歳までは理解することが難しい状況でした。 しかし「夜通し」の語彙力とスピーチが発達してきて、今や止まることはありません!! 彼 女の記憶はすばらしいもので、早い時期からそらでアルファベット、数字、人の名前を暗 唱することができました。読みは良いのですが、計算は期待できるものではありません!! 書き取りやつづりはまあまあですが、レベルは高いものではないと言えます。彼女は急い で書き、文章の単語と単語の間のスペースを空けないで、続けて文字を書く傾向が有りま す。

彼女は天候にそぐわない服を着るので、いまだに90%程度は私がきちんと着せ付 けなければなりません。前後ろに服を着ていても指摘されるまで気づかず、笑っているだ けです。でも言えば正しく着られます。もう一つの特徴は肌に服のタグが触れることを極端 に嫌うことです。とても苛立ち、少し肌もアレルギー反応を起こします。ですから、彼女 の服のタグを私は全部切り取っておかなければなりません。

他の特徴はZoeは急に冷や汗をかき、足のつめを切ることに非常に不安を持つ事で した。(実際、別の話として他の私の子どもよりも、つめや髪の毛が早く伸びていました)。 彼女はきれいな巻き毛をしていましたが、家族にそのようなものはおらずウイリアムス症 候群の特徴である事に気づきました。典型的なウイリアムス症候群の子どもである彼女は 毎日このようなことを尋ねてきました「あしたの晩ご飯は何?」。時々食後すぐにこの質 問をすることがあります。また彼女は誕生日のような特別の出来事に執着する事がありま す。これからもそうでしょう。音への過敏さはZoeには依然として大きい問題です。しか し大きくなるに連れ、悩まされていた音を聞いても苦しまないようになりました。−例え ばチェーンソー・台所用の攪拌機・バキューム式掃除機・ドリル・サイレンなどです。彼 女は「血生臭いチェーンソー」を使う隣人をひどくしかるため、道を走っていく事で有名 です。同時に彼女の嫌いな音が聞こえてきた時、ヒステリックに叫び、大きな声を上げで 耳を両手でふさぎながら苦しみます。また攻撃してくる音を探すことに執着を持っていま す。多くのウイリアムス症候群の人は気に触る音がすると、両耳をふさぐことに気づきま した。Zoeは音が「耳を傷める」と言っています。個人的な特記事項としてウイリアムス 症候群の記事には載っていないこととして、彼女の小陰唇が大きいいことがあります。し かし他のお母さんに娘さんの事を話すと、その方も同じように気づいていました。こすれ たり、ひりひりする痛みいくつかはこの為に生じている様です。

Zoeは食べ物の好き嫌いが激しく「偏執的」でもあります。彼女は生のにんじんを キロ単位で食べます。小麦色のパンや卵ミルクは食べません。ピーナッツペーストをサン ドイッチにして食べる事が好きで、学校給食では365日毎日食べています!!

最近は生き生きした親しみやすい明るい子どもになり、14歳を迎えました。彼女は 一晩中ぐっすりと眠り、小石や丸い石を集めたり、蝶、蛾、クモがすきです。Zoeは外国 なまりにも興味を持ち、あつかましく物まねをします。ー当人の目の前で!!彼女はテレビが 好きで特にSBSチャンネルがすきです。全部の外国映画をみて、そのサブタイトルに集 中します。彼女は贈られたキーボードを弾き、耳で聞いた調子を真似ることができ、1、 2回で正しいキーを捜し出します。

Zoeの健康は子どもの頃の中耳炎、乳歯の治療(乳歯は3年間生えてかぶさったま までした)。アキレス腱が固いためにつま先立って歩くので、アキレス腱を伸ばす外科手 術をしましたが、それ以外は概して健康した。始めて彼女を見る多くの人は、年齢がわか らない(あるいは障害がわからない)ので、スムーズに話す印象からなんてスマートなん だろうと思うようです。少しの間彼女の言うことを聞くと、彼女がよく談笑していること が分かります。友達を誘って遊び続けることが難しい − 好きなんだけれども、すぐに友 達から離れて友達を残したまま自分1人であそんだり、テレビを見たりしてしまいます。 お店や浜辺などどこか外に連れ出すと、いつも自分の安全をかえりみず「団体」から離れ てまいごになってしまいます。またとても信用しやすく、他人全てを信用し過ぎます。他 の人たちに感情移入してしまう様です。ニュースや地域で悲劇や不幸がある事を聞くとよ く泣いています。

ある人がかつて私にいいました。「もし、障害のある子どもをもつなら、ウイリア ムス症候群は一番素晴らしい障害ですよ!」。わたしは全く同感です。....私たちは彼女無 しにはいられませんし、私たち家族への貢献はとても価値のあるものです。

私はこの文章が、ウイリアムス症候群の娘を持つ生活や自分の経験・感じたことを 理解して頂くことに、少しでも役立てばと希望しています


イングリッド・シューベルト

INGRID SCHUBERT


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(1997年11月)



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