カレン(Karen)の物語



Karen's Story

アイルランドのウイリアムス症候群協会を設立された母親のお話です。原文は、モイ ラン家のホームページにあります。

(1998年6月)

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我が家の娘カレンは、1983年8月19日に生まれました。妊娠期間は正常でした。 上の子供がマーク(Mark)という2才6ヶ月の男の子だったので、赤ちゃんが女の子だとわ かって、夫のパスカル(Paschal)と私はとても喜びました。カレンは、体重が5ポンド3オ ンス(2.3キロ)しかない小さな赤ちゃんでした。体重が少ないことに加えて臍ヘルニ アがあり、直ちに病院の新生児ICUに連れて行かれました。初日は保育器に入れられ、 次の日からは普通の新生児の看護ではなく特別な看護を受けました。医師や看護婦は、こ の状況について安心するように言ってくれました。医師は、臍ヘルニアは新生児にはめず らしいことではないので、そのうちに良くなるだろうと言いました。医師たちは、この時 点で特に処置は必要ないし、低体重も問題だとは考えていませんでした。私自身も、妊娠 7ヶ月の時にウイルスに感染して体重が増加しなかったのが子供の低体重の原因だと思っ ていたので、まったく心配していませんでした。食事には問題があるようで、哺乳ビンを 放しませんでした。少量ずつの人工ミルクを頻繁に与えられました。通常どおりの入院期 間の後、私はカレンを家に連れて帰りました。

マークの時と同じように、夫婦の寝室にベビーベッドを置いて彼女を寝かせました。 食事の問題は良くなっておらず、腹痛らしきものもありました。彼女は一日に一回、決ま って夜中の11時か12時に定期的に泣きました。一度泣きはじめると、3〜5時間の間 泣き続けました。3週間後、このままでは私もパスカルもまったく寝られないので、カレ ンのベビーベッドを別の小さな寝室に移しました。この時期のカレンはよく吐いていたの で、予備のベットに横になって、彼女が自分の吐瀉物で窒息しないように見ていました。 最初の数週間の経験から、カレンを抱っこしても何の効果も無いことがわかっていました ので、シーツを何度も取り替えてあげる以外は、たいていの場合ただ彼女を見ているだけ でした。6週間目の定期検診を過ぎて、かかりつけの小児科医はカレンにはミルクアレル ギーがあるかもしれないと感じ、大豆から作ったミルクを与えるように言いました。同時 に、昼間に泣いて夜は寝るように薬を処方してくれました。この薬は最初の3晩は効きま したが、すぐに元の状態に戻りました。大豆から作ったミルクも目にみえた効果はありま せんでした。この状態はカレンが9ヶ月になるまで続きました。いろいろな方法で固形食 を与えてみましたが、彼女は受け付けませんでした。診察や検査のために何度も地元の病 院に通いましたが、誰もカレンの問題を正確に指摘できませんでした。病院通いの何割か は、彼女のためというより、私自身のためだったように思います。この頃、私は仕事に復 帰し、睡眠不足と心配とで憔悴しきっていました。医者は、彼女は正常ではないが、どこ が悪いのかはっきりわからないと言いました。この時点で、カレンの発達の遅れは明らか でした。歩こうともしないし、自分の回りで起こっていることにまったく興味を示しませ んでした。もうこれ以上は続けていけないと判断して、フルタイムからパートタイムの仕 事に変更しました。

その後、9ヶ月から12ヶ月になる頃には、事態が少し良くなったよ うに感じました。カレンの睡眠傾向は改善し、それまでの9ヶ月に比べて私も少しは楽に なりました。私の妹にカレンの世話をまかせて、パスカルと私は2週間の休暇を取りまし た。心から休暇を楽しみました。この休暇が無ければそれ以後何ヶ月もの期間に耐えられ なかったでしょう。その休暇から帰ると(1984年9月)すぐに、カレンは直腸脱にな りました。カレンはもともと便秘ぎみで、6ヶ月の頃から直腸脱の傾向がありました。し かし、これに関しては何の準備もしていませんでした。直腸は3インチ(8センチ)くら いも出てきて、炎症をおこし、腫れ、出血しました。初めて見た時はたいへんびっくりし ましたが、そのうちに対処方法を覚えました。医師達は、これには痛みはまったくなく、 6〜7才になると自然に直るものだと言いました。カレンが痛がって床を転げまわるのを 見ていること以外何もできませんでした。この頃、カレンはけだるそうで、気分が優れず、 頻繁に嘔吐していました。私は「茶色の嘔吐」と呼んでいました。医者によれば、それは 血液を含んだ粘液だそうですが、地元の病院でいくら調べても原因はわかりませんでした。 退院したあと、水痘にかかり数週間床についていました。水痘が治ったあとは、また直腸 脱と嘔吐に苦しみました。1984年11月に、詳しい検査をするために、クラムリン (Crumlin)にある、Our Lady's病院を紹介されました。 クラムリンの外科チームは、臍 ヘルニアだけではなく2種類のヘルニアがあり、すぐに手術が必要だと判断しました。手 術は成功し、しばらくしてカレンは退院しました。しかし、嘔吐の原因は判明せず、直腸 脱の治療も行われませんでした。さらに数週間入院を続けても無駄だったでしょう。手術 から6週間後の定期検査を受けに再度クラムリンを訪れ、彼女の服を脱がせると、斑点に 覆われていました。家に連れて帰り、医者に行きました。今度は麻疹でした。複合 (confluent)麻疹にかかっていることがわかったのです。カレンは病気がちだったので、医 者は肺炎を併発したら入院しなければいけないだろうと判断していました。彼女には肺炎 と戦う力は残っていないと思われたからです。家で看病しましたが、回復はとてもゆっく りで、1984年のクリスマス過ぎまでかかりました。

この時点でカレンは1才6ヶ月になっていました。カレンは生まれてからずっと苦難 の時を過ごしてきたので、彼女を一人の子供として見てやる時間がありませんでした。し かし、一つわかっていたことは、元気だった短い期間、彼女はにこにこした愛すべき子供 だったことです。愛すべき個性が光っていました。朝の5時、彼女の微笑みが私の怒りを 静めてくれたことが何度もありました。食事の問題、便秘、直腸脱、嘔吐等はその後もず っと続いていました。直腸脱が悪くなり、治療が必要な状態になりました。バリナスロー やダブリンの病院に何度も通いました。色々な方法、例えば、縫合・ワイヤ・何本もの注 射が試されました。全身麻酔の手術で1ヶ月入院したこともありました。最後に、バリナ スロー病院で、カレンの肛門にワイヤが挿入され、毎日大量の緩下剤を服用することで、 直腸脱の問題は解決しました。少なくとも、このことはカレンと我々の息抜きになりまし た。彼女はまだ便秘に苦しんでいたし、その時はワイヤの位置を保つために浣腸をする必 要がありました。1985年9月、カレンは慈善団体の心理学者の診断を受け、「極度の発 達遅滞」だと言われました。その後、ケースワーカが週に一度訪れてカレンの訓練をして くれるようになりました。私も何をすればいいかを習い、午後は毎日カレンと過ごしまし た。彼女に多くを望みすぎて、最初はとても不満を感じました。カレンの集中力は限られ ていて、一度に5分程度しか続かないことがわかりました。彼女は覚えなければいけない ことが山のようにありました。これまでずっと病気だったために、普通の赤ちゃんがする ことを経験していないのです。まさに一からのスタートでした。どれもこれも難しいこと でした。さらに、彼女は2才6ヶ月になろうとしているのに、未だにベビーフードだけし か食べませんでした。ある時期、クラムリンの病院で強制的に食べさせる訓練を受けまし たがだめでした。すべで吐き出してしまいました。

1985年のクリスマスの頃、何度かカレンを診察に連れて行きましたが、結果は良 くありませんでした。生まれてから3回目のクリスマスでしたが、まだ病気に苦しんでい ました。1985年12月31日、カレンを地元の病院に連れて行き、かかりつけの小児 科医と話をしました。カレンのどこが悪いのか知りたいのです、と彼に伝えました。何を するか、何処に行くかはまったく気にしていませんでした。答えが得られるなら、オース トラリアにだって連れていったでしょう。どこが悪いのか、死ぬのか長生きするのか、明 日は何が起こるのか、など何もわからないまま彼女を毎日看病するという言い知れぬ不安 に苦しんでいました。答えが無いままでは、彼女の将来に希望も持てませんでした。ただ 日々を送るだけの生活のため、我々は皆ストレスで崩壊寸前でした。カレンが生まれて以 来、両親の注意をカレンがすべて奪ってしまうために、息子のマークも苦しんでいました。 この当時、私たちの一番重要な問題は、将来がどうなるのか見えないことでした。そして、 再びクラムリンのOur Lady's病院に行くように勧められました。

1986年1月19日、クラムリンの病院を訪れました。カレンは2才5ヶ月でした。 1月27日の月曜日、カレンはウイリアムス症候群と診断されました。女医は私を座らせ ると、診断を告げました。私はショックで呆然としていました。カレンの何処が悪いのか を聞く日を長い間待ち続けたのに、やっとそれを告げられた当初は受け入れることができ ませんでした。今思えば、どのような病気であれ、薬で直すことが可能で、望んでいた完 璧な娘を取り戻せるものだという、かすかな期待を持ち続けていたようです。けして、「症 候群」などを期待していませんでした。それも聞いたこともないような! その女医は、こ の病気についていくつかの事実を教えてくれました。カレンには、心雑音があり、精神発 達遅滞で、IQは56くらいであること、しかも非常にめずらしい病気であると言いまし た。専門書の1ページをコピーして渡してくれました。そこにはウイリアムス症候群の子 供の写真がありました。恐ろしいことが書いてありました。地元の精神障害者に対する支 援サービスを受けるようにアドバイスされました。次の金曜日、パスカルがダブリンに会 いに来るまで、誰にもこの診断のことは話せませんでした。カレンは、病院側の要請で別 の検査を受けるために、すぐには退院できませんでした。

しばらくしてカレンを家に連れて帰りました。今回の帰宅はそれまでとは違っていま した。答をもらいましたが、それにどういう意味があるのでしょう。この状態に慣れるま で、数週間かかりました。お互い慰めあいました。私は夜になると何度も涙を流しました。 退院した後、私は仕事に戻り、昼間はなんとか平静を保ちました。しかし、夕方から夜は だめでした。私たちは鬱状態になっていたようです。何処へ行けばウイリアムス症候群の 知識が得られるのか、この状況をどう処理すればいいのか、何もわかりませんでした。か わいい娘を見ながら、彼女の将来がどうなるのかを考えていました。

私を無気力状態から救い出してくれる出来事が起こりました。私の同僚達がお金を出 し合って、Lourdes へ行く巡礼の旅に私とカレンを送りだしてくれました。私は信心深く はありませんでしたが、皆が私たちのことを気にかけてくれていることで、気を取り直し て前へ進まなければいけないという気になりました。Lourdesから帰ってき日から、可能な 限りウイリアムス症候群に関する情報を集めることに力を注ぎました。ラジオ番組(Gay Byrne Hour)を通じて、ウイリアムス症候群の息子を持つ家族と知り合いました。私が働 いている会社の人事課長の助けを得て、アメリカのケンタッキーに住む、ウイリアムス症 候群に詳しい教授にもコンタクトを取りました。長い手紙のやり取りを経て、1986年 9月、この教授に会うために、別の家族とともにロンドンに行きました。彼は私たちとの 面会に長い時間を割いてくれて、ウイリアムス症候群について説明してくれました。彼は 非常に協力的であり、既にウイリアムス症候群の子供を持った2家族が知り合ったのだか ら、アイルランドにもサポートグループを設立すべきだと助言してくれました。彼は、ア イルランドにもかなりの数のウイリアムス症候群の人がいるが、彼らの多くは未だに診断 を受けないままだと考えていました。ロンドンでの彼の助言に従って、アイルランド・ウ イリアムス症候群協会設立の仕事を始め、いまでは約40家族が参加する活発な組織がで きました。まだ我々に連絡を取っていなかったり、診断そのものを受けていないウイリア ムス症候群の人がたくさんいると確信しています。協会の住所と電話番号はこの記事の最 後に掲載されています。

カレンは現在14才です。彼女はとても外向的な性格ですが、同年代の子供とは関ろ うとしません。一人でいることを好みます。彼女はとてもかわいいひとなつっこい子供で、 人々が困惑させられることを嫌います。アスローン(Athlone)にある精神障害児のための 養護学校に通って、勉強し、進歩し続けています。大抵のウイリアムス症候群の人には「こ だわり」がありますが、彼女の場合は主に「人」です。彼女のお気に入りは、RTEの Pat Kenny です。彼の写真を貼ったスクラップブックは2冊目です。ウイリアムス症候群に併 発する重い心臓病はありませんが、2年に一回は心臓の検査に行く必要があります。もう 一つ、ウイリアムス症候群で心配される腎臓につては、年に1回の調査を受けています。 水泳が好きで、地元のスイミングスクールで週2回から3回の練習をしています。彼女は、 水泳と体操の2種目でスペシャルオリンピックに参加し、Mosney で開催された地方大会で は、水泳のGalway 代表になりました。彼女の人生は充実しており、彼女も満足しています。 パスカルと私は、自然と学習障害児を持った苦労を知り、彼女の将来のためになることに 全力を尽くしています。

Ann Breen.
アン・ブリーン

Williams Syndrome Association of Ireland
13 Kilgarve Park,
Ballinasloe,
Co. Galway.


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