診断を受け入れることに対する(夫の)見方は少し異なる



アメリカのウィリアムズ症候群協会(WSA)の会報に掲載されていた記事です。

(2003年12月)

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A Slightly Different (Husband's) Perspective on Accepting the Diagnosis

By Ned Portune
"Heart to Heart", Volume 20 Number 3, November 2003, Page 12

おかしな話しだが、われわれ夫は自分のこどもの1人に障害があるかもしれないという事実を確定診断を受ける前に受け入れることは難しい。「自分の子供に問題があるはずない」といううぬぼれや、「このような問題を考えている時間が無い」という怠惰な考えのどちらになるかはわからないが、最初の反応には明らかに両方が混ざっている。

エリン(Erin)は私たちの2人目のこどもなので、彼女の発達や行動が最初のこどもと違っているという事実は否定できなかった。グラント(Grant)はあらゆる数値が95パーセンタイルに入っていたが、エリンは5パーセンタイルだった。彼女は今でも5パーセンタイルの領域にいるが、それだけでは何か深刻な問題があるわけではない。しかし、それ以外の兆候があった。最初はいつも泣き叫んでいることと寝つかないことであり、このために私たち夫婦は何かがおかしいと思い始めた。そして腹痛が始まり、だんだんと悪化していった。

配偶者として私が悪かったことは、なにか問題があると考えなかった事である。つまりリサ(Lisa:妻)よりは医者のほうがよく知っているはずだと考えていた。一度も診察には同行しなかったが、医者達は詳しく話しを聞き、正しい結論を出してくれたと信じていた。そして、妻は自分の言うことを誰も深刻に受けとめてくれないので、過剰反応していると考えていた。さらに、妻は私の考えも理解してくれていると思っていた。妻は数ヶ月前に出産したばかりであり、(私の考えでは)彼女はいわゆるマタニティ・ブルーだと思った。そして、妻の睡眠不足が全ての原因だと考えていた。妻は頑固なので、医者の言うことを素直に聞いて今の考えを捨てるべきだと思った。ご想像の通り、私達の結婚はこのとき「ただなんとなく」うまくいっていただけだった。

その後、リサは私を説得して(つまり無理矢理)新たな専門家によるエリンの診断に連れ出した。その時エリンは生後6ヶ月だった。私はいすに腰掛けてリサがエリンの生育歴、つまり彼女の特徴・問題、そして何かがおかしいと考えている理由を話すのを聞いていた。私が納得する時間が来た。医師はさまざまな医学的根拠を交えながら、これらは単純な問題であり、リサが深刻に考えすぎている、あるい遺伝子に問題があると疑って過剰反応していると語った。医師はリサをまっすぐ見つめ、「あかちゃんは誰でも泣くものだということを理解することが必要ですよ、ポーチュン夫人(Mrs.Portune)。」 リサが話した内容は彼女が合理的ではないという一言で片付けられてしまった。

今では、私は妻のことを理解している(たとえ、以前は妻がエリンの問題の深刻さに対して過剰反応していたと考えていたとしても)、そして、ひとつだけ妻について言うとしたら、彼女は非合理的な考え方はしないということである。さらに今では妻が正しかったことを理解している。たとえ誰一人として、妻が母親としての経験があることに一片の信頼も置かず、知的な考え方をしないと信じていても。彼女が最期に頼ったのは私であったが、私は彼女の期待に答えられなかった。これが私の顕現日だと思う方もいるだろう。

その診察の後たいして時間がたたないうちに、リサがしてきたように私もエリンの健康問題について疑問を持ち始めた。実際その時点で我々はリサが退職するという重要な決断をしなければならなかった。最終的にどこが悪いかを見つけ出すか、単に彼女の世話をするだけに終るかはわからないが、リサはエリンの健康問題に専念する必要があった。これは我々の結婚生活において最大の決断だった(家を建てたばかりだった)。あとで考えてみると、これは最良の決断でもあった。

エリンは生後6ヶ月以降様々な症状が出た。9ヶ月でキアリ奇形による頭蓋内圧を下げる手術を受け、18ヶ月で白血病になり、ついに30ヶ月でウィリアムズ症候群の診断を受けた。彼女はつらい人生を歩んでいる。しかし、どんなときでも誰がエリンの病状と看護に関して最もよく理解しているのかには疑いがない。それは母親のリサである。そしてその事実が誰にとっても人生をよくしていると、私は理解した。

父親としてはこどもを無条件に愛すること以外に選択肢は無いと考える。しかし、夫としては選ぶ道がある。妻を信じるか信じないかのどちらかである。もし信じられなければ、直接その問題から発生する以上に大きな問題を抱えることになる。私の考えでは、信じることは、家族として行うべきもっとも大切なことだからである。



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