ベンのいろいろ
2008年3月1日と2日の2日間、三重大学・順天堂大学小児科が主催して東京で「Williams Syndromeが集う“音楽の森”」が開催されました。順天堂大学・こどもの城・FM東京を舞台に、アメリカのウィリアムズ症候群協会(Williams Syndrome Association:WSA)の事務局長であるTerry Monkaba(テリー・モンケイバ)さんと、息子さんでウィリアムズ症候群のドラマーBen君を迎えて、アメリカと日本の子ども達の交流を行いました。以下はテリーさんがベンを紹介したビデオのスクリプトの翻訳です。
(2008年4月)
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Cocktails with Ben
1986年1月29日、夫のゲーリーと私は最初の子供を授かりました。入院した病院ではすぐに医者から健康状態にはまったく問題は無いと言われて、初産が高齢出産である他のお母さんと同じようにほっとためいきをつきました。私は障害がある子供を育てることになったらどうすればよいか分からないとゲーリーに話していました。
6週間後、ベンは心不全をおこし、息子に関する「症候群」という単語を私達は初めて耳にしました。循環器専門医によれば、ベンはウィリアムズ症候群という発達障害の可能性があるとのことでした。
今振り返ってみると、ベンと私達家族に何が待ち受けているのかまったくわかりませんでした。しかし、ウィリアムズ症候群のことを知り、それがベンと私達家族の人生に影響を彩るようになってみると、この21年間の道のりは魅力的で、複雑で、時には恐ろしいけども、美しいものでした。
第一部:病歴
ベンはウィリアムズ症候群の特徴の一つである、弁のすぐ上の部分の大動脈の狭窄(大動脈弁上狭窄)を持っています。ベンの場合は重度でした。ベンは4歳になるまでに、心臓を修復するために4回の大手術を受けました。一番危なかったのは2回目で、まだ生後数週間しかたっていませんでした。ミシガン大学の医師団は体温を下げるためにベンを氷付けにして一時間半にわたって生命維持装置を外しました。これは通常より30分も長く、この長さは医師団にとっても初めての経験でした。ベンは耐えられないかもしれないと思われていました。しかしベンは耐えました。信じられない魂がベンジャミンに宿っていると感じたのはまさにこの時でした。
第二部:発達と音楽
ベンが2回目の手術から回復しつつある時、ひとつだけ彼を落ち着かせる方法がありました。音楽です。事実として音楽は人生の初めから彼の慰めでした。普通の子どもなら何でもない発達の目安が、ベンにとっては困難なものでした。ウィリアムズ症候群の多くの子どもにとってもそれらは難しいことですが、ベンは脊椎側彎症があるので一層困難さが増しました。ベンの背骨の曲がり具合は成長と共に大きくなりました。2歳の誕生日前に脊椎用の装具を付け始め、12年間続けました。
もし音楽に対する情熱がなかったら、ベンは歩けなかったかもしれません。実際になかなか歩き始めず、お気に入りの音楽に合わせて足を出せるようになったのは4歳になってからです。脊椎用の装具を外すのはとても手間がかかるため、ベンは、ヨチヨチ歩きの子ども達のように自分の体を知り、外の世界を探検する機会に恵まれませんでした。彼はただ座って音楽に聞き入り、楽器の演奏に見入っていました。彼にとっては文字通り音楽が世界のすべてでした。9歳の年のクリスマスの朝起きると、彼はツリーの下にドラムセットを見つけました。自分自身の楽器です。自分の内にある音楽を表現できる楽器なのです。
第三部:魂
ベンの健康に関するあらゆる問題や障害にもかかわらず、彼の自然体は純粋に喜びに満ちていることに我々はすぐに気付きました。健康状態が安定するにつれ、幼いにも関わらずベンの独特の性格が輝き始めました。興味深いことに、今現在ベンが好きなことは、小さい頃とほとんど同じです。それは演奏すること、とても小さな頃からベンは楽器を演奏することが好きでした。もちろん音楽、特にモータウンとビーチボーイズも大好きです。サーカスのピエロ、病院クラウン、ロナルド・マクドナルドなどほとんどあらゆる種類のクラウン(道化師)も好きです。そして、かわいい女の子にも目がありません。
彼は他人を幸せにしたいという抗しがたい願望を持っています。これはベンが6歳の時に交わした会話ですが、彼が本当に言いたいことは、楽器を演奏したいということでした。1994年、「60ミニッツ」がウィリアムズ症候群を取り上げた番組で、一番にモーリー・セイファー(Morley Safer)と挨拶をしたのがベンでした。そして同番組が10年後にウィリアムズ症候群に関する追跡番組を作成した時も、例によってまたもやベンが皆を先導しました。
第四部:学校と教育
ベンは1歳になる前から療育を受け始め、3歳からは研究プログラムにも参加しています。5歳の時に、ミシガン州トロイ(Troy, Michigan)の公立学校システムに参加しました。ベンは学習課題の時間のほとんどは特別教育学級に通っていました。読み方は簡単に憶えましたが、他のウィリアムズ症候群の子どもと同じように、算数にはとても苦労しました。そして、どのような教科であれベンには一回に5分以上集中できる能力はありませんでした。
学生時代、彼はいつも政治家、特に市長のようだと言われていました。学校の発表会のときはいつもステージの上にいて、生徒全員が彼のことを知っていました。なぜなら彼は神経質になることもなければ音符を読むこともできないのに、いつもニコニコと誰にでも笑いかけていたからです。ベンはまさしく学校集団の一員でした。ベンは健常児からいろいろ影響を受けたことは確かですが、健常児もまたベンと関わることで影響を受けたと思っています。
高校にいた4年間を通して、ベンが他の生徒から何かに誘われたのは2回しかなかったと記憶しています。でも、それを辛いと感じていたのはベンではなくて私だったということがわかりました。ベンは「コップにはまだ半分残っている」と考えられる並外れた能力のお陰で、彼は孤独感を克服していました。ホームカミングデーのダンスの時に女の子はみんなデート相手がいて誰もベンとダンスをしてくれないので、つまらない場であることがすぐにわかった時でさえ、彼は綺麗なドレスに身をつつんだ女の子を見ていること、そして皆がベンのスーツ姿を褒めてくれることに気がついただけで彼には十分でした。
全体としてベンは高校が好きでした。生徒達は彼に意地悪はしなかったし、親友同士よりもっと仲良くしてくれました。ベンはそれで十分でした。学業の面では、ベンは特別学級と普通学級の両方に参加し続け、彼のクラウンとしての成績を見込まれて、優秀な学校のジャズバンドに加わるよう要請されました。2006年にトロイ高校を卒業する時には、非常に人気があるウッディー・ハーマン ジャズ大賞(Woody Herman Jazz award)の受領者に指名されました。
彼はホームカミングデーではいい思いはできなかったかもしれませんが、最上級生として参加した2回の学年末大ダンスパーティーには特別な友達のリーゼル(Liesl)と一緒に参加することで埋め合わせをしました。
第五部:現在
ベンの今の生活を考えてみると、今やっていることはすべて彼が好きなことなので、私はとても幸せです。彼は独自のクラウン、すなわちビッグ・レッドという登場人物を完成させ、地域のパレードで行進し、最近は病院クラウンとしての特別訓練を受け始めました。入院している子ども達を元気付けたいと心から望んでいます。私達が住む地域の学校群を担当する音楽療法士のアシスタントとしても活躍しています。今はリーゼルがベンのガールフレンドです。最初のロマンスを楽しんでいるのを見るのは嬉しいことです。
そして勿論、音楽もやっています。バンドに加わって地区の集会で定期的に演奏するし、毎週日曜には教会でも演奏します。しかし、バンダービルト・ケネディ・センター(Vanderbilt Kennedy Center)で開かれるウィリアムズ症候群音楽キャンプに参加することほど楽しいことは他にはありません。ベンは絶好調でした。そのキャンプで私達は初めてケネディ・センターを知ることになりましたが、そのキャンプの一週間、そしてそれ以降ケネディ・センターで実施された素晴しい活動のお陰で、小さな頃からベンの人生は大きな影響を受けてきました。彼らが取り組んでいる遺伝子・循環器・教育そしてウィリアムズ症候群そのものの研究が、べンの、そして後に続く他の多くの人たちの人生を豊かにする手助けをしています。
ケネディ・センターはベンの一番の夢を実現してくれました。ベンはグランド・オール・オープリー(Grand Ole Opry:テネシー州ナッシュヴィルにあるカントリー・ミュージックの公開ライブ放送のラジオ番組)のステージでドラムを演奏したのです。しかもビーチボーイズのスタジオドラマーが彼の補助パーカッション奏者を務めてくれました。
ベンが伝えてくれる喜びは簡単なことかもしれませんが、みんなも学んで欲しい教訓です。(The joy Ben brings to even the simplest moment is a lesson I wish everyone could learn.)
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