私の愛娘
愛知県にお住いのお父さんがご自身のブログに書かれた手記をまとめたものです。
(2012年4月)
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ウイリアムス症候群
ウイリアムス症候群という病名は、あまり知られていませんが、ダウン症候群と同じく染色体の異常により生じるもので、実は長女(17歳)が2歳の時にこのウイリアムス症候群と診断されていて知的障害があります。いわゆるIQは50−55くらいです二万人にひとりの確率で生まれてくるといわれています。
2歳まで分からなかったのですが、生まれてまもなく心雑音があるので小児循環器科にかかり、発育が思わしくなかったこともあり、隣町のこども発達センターというところで医師のカウンセリングを受けたところ、医師から染色体の検査を薦められ確定診断を受けました。
心雑音ありといわれただけでも、カテーテル検査をして大動脈上部弁と肺動脈上部弁狭窄がみつかり、手術は今すぐ必要ではないが狭窄により血流の圧力差があるので心不全を起こす怖れもあるので定期健診をといわれ心配していました。心臓も発育につれて改善することもあるから、ということで発育に心配はあるものの、まさか知的障害まであるとはその時は思いもよりませんでした。
正直、知的障害があるといわれた時は、心雑音があると言われた時の何十倍ものショックを受けました。殆どよくわからない病名だし、色々な本を見ても載っていない。その日からインターネットによる検索の日々が始まりました。イギリスのBBC放送がウイリアムス症候群の子供の特集番組を流すと聞いて、BBCへ番組のビデオを送ってもらうようお願いしたりしました。(BBCのプロデューサーが親切な方で、無料でビデオを送っていただけたし、ロンドンの小児専門病院での医師まで紹介してくれました)。
それでも成長すれば、障害の度合いもよくなるに違いないと無知な私は思っていて、発達センターの医師に成長が遅いだけで大人になれば普通に追いつくのですよねと聞いたところ、残念ながらそういうことは無いですといわれ、更にショックを受けました。
ご近所に、たまたま同じ病名の息子さんをお持ちの方が住んでいらっしゃって、その方が中部地方のウイリアムス症候群の会の会長さんをされていました。その方をご紹介され、今度親の会で子供をつれてバーベキュー大会をする計画があるから来ませんかと誘われ、15組ほどの親子が参加したそのバーベキュー大会に家内と長女が行きました。その時撮ってもらった写真を見せてもらって、わたしはとても驚きました。他の同じくらいの年齢のお子さんが、ウチの長女と全く同じ顔をしていたからですダウン症候群の方が、同じような顔をしていると思うのですが、全くそのような感覚を覚えました。
ウイリアムス症候群の子供は目は大きく、口元があごが小さいのでとがっており、歯があごの骨格の狭さのため、上手く生え揃わない外見上の特徴があるのですが、ほとんどのお子さんが男女を問わず似たような顔つきだったのです。
ウイリアムス症候群は、7番目の染色体が一部欠損して生じる障害で、心臓の障害と知的障害が特徴です。他には空間的視野がうまく捉えきれず、上と下、右と左の間隔が上手くつかめません。また、聴覚が発達しているのか、音楽的には結構な才能を持ちますが、花火や運動会のピストル音、雷の轟音などに異常に恐怖を感じるようで、いつも運動会の徒競走では耳をふさいでスタートラインに立っています・・・。
障害認定はC判定を受けており、手帳を持っていると何かと割引があって、経済的な恩恵も受けられます。
診断を受け15年間、これまで幼稚園選びや小学校時代、地域の公立中学・養護学校高等部への進学、そして今は卒業後の就職といろいろな経験をたくさんしてきました。若い親御さんはウイリアムス症候群と子供さんが診断されて、目の前が真っ暗になっている方もいらっしゃると思いますが、私たちは色々な方々のサポートを受け、これまで幸せに暮らしてきております。
子供はいじめらしいいじめも受けることなく、周りの友達や先生に恵まれ元気に学校に通っていて、とても学校が大好きです。中学時代は3年間一日も休まず通い、県知事から表彰を受ける程になり、大喜びしました。健常児で引きこもりになっているお子さんにお悩みの方がいらっしゃる事を思えば、とても恵まれていると思います。まだまだこれから色々な試練・差別に会うと思いますが、一つ一つ克服していきたいと思っています。長女の事についてはこれ以外にもまだまだ色々な事があったので、またおいおい書いていこうと思います。
ここまで最初から読んで下さった方、我が家は大変な家庭だと思われたかもしれませんが、決して不幸だとは思っていないですよ。何でもものの見方は一つだけではないし、幸福や不幸も考え方・見方ひとつじゃないかとおもいます。そう思えるようになりました。前向きに考える事は大切ですね・・・。
それから、ウイリアムス症候群とお子さんが診断された親御さん、決して悲観しないでください。子供は育ちます。絶対に育ちます。親にも感謝してくれます。元気出していきましょう。
療育手帳
長女がこの病名の診断を受けたのが2歳の時。最初は「知的障害児」の言葉に非常に抵抗がありました。自分に障害児に対して差別的感覚を持っていたのは事実です。「ウチはそうじゃない」と。
しかし、現実はそうではありません。明らかに言葉が遅く、大きな音には異常に反応し大パニック。歩くのもかなり遅く、事実を認めなければならない状況でした。
こども発達センターの医師からは、療育手帳の取得を薦められました。しかし、この手帳をもらうと公に「知的障害児(者)」であるということになり、今後の進学や社会に出るときに困らないかと思っていました。今から思うと、何とアホらしいことを考えていたかと思います。この手帳をもらうと、経済的支援が多大で、大変助かる事がよくわかりました。
- 名古屋市の水族館・科学館・動物園・名古屋城などの入場料は付添い人1人含め無料。
- その他の入場料が必要な施設は殆ど割引があります(映画館、USJなど)
- 市からは障害児童手当が3ヶ月ごとに3万円支給があります。
- 市営バスは無料です。私営バスも半額です。
- 名古屋市営駐車場は半額です。(繁華街に家族で車で出かけたときには大変助かります)
- 飛行機・JRも割引が有ります(使った事無いですが)
つまり家族で出かけるときは、いつも療育手帳を持参しています。ちなみにウチはC判定(IQは56なので比較的軽度との判断)重度の方はA、中度(IQ50くらい)はBです。
養護学校高等部に今通っていますが、学校からも就職には必要ということで、もっていない生徒・親御さんには必ず取得するよう指示があります(親御さんの中には、以前私が思っていたように、障害者手帳を持つことに抵抗のある方がいらっしゃるのでしょう)
日本の企業は、雇用している従業員の数%を障害者雇用に当てなければならないという法律があります(身体障害者や精神障害者を含めて)。その雇用率を守れない企業は、ペナルティとしてお金を払わなければなりません。企業経営者は、ペナルティ料を払って企業イメージを落とすよりも、どうせお金を払うなら障害者を雇って働いてもらうほうが業務上もメリットがあります。なおかつ積極的に雇用をアピールすれば、公共の福祉に前向きな企業という宣伝もできますので、経営センスの豊かなカイシャは、障害者雇用に積極的です。(サイゼリヤさん等)
また、特例子会社といって、障害者従業員が殆どを占める100%子会社を設立する会社が増えています。障害者に適した職場・業務をまとめて取り扱う特例子会社は、親会社の障害者雇用率にカウントするという法律があり、それは一般の職場になかなか適応できない障害者に働きやすい職場を提供できるということで、近年増えてきています。(愛知県ではトヨタ、デンソー、中部電力、JR東海など大手が多いです)一般の職場では障害者を面倒見る人が必要になったりして、本人も職場も負担が大きいからこういった制度は双方にメリットあります。
また、特例子会社は社内印刷や社内メールなど、比較的障害者でもやりやすい業務を集めていて、一般の従業員では給与水準のワリには付加価値が低いような仕事を、障害者で別会社ということで賃金水準を抑えるという、労務費圧縮のコストダウン策としても親会社にとっては有効なのです。
とにかく、療育手帳を持っていれば本人の為にも保護者の為にも有効なので、必ず取得するようにしてください。
来年養護学校高等部を卒業するうちにとっては、就職か就労支援に行くかまだ迷っています。色々実習を積んでいく中で、本人の意向を汲んで決めていきます。
また、私は愛知県の障害者年金基金というものに加入しており、それは月々6900円支払うと保護者が死亡した後、障害者に毎月2万円永年で支給があるという基金です。親の死亡後の生活面での自立が難しいので、少なくとも経済的に補助になることはやっておいたほうがいいです。給与で5万円くらい、基金から2万円支給あり、B判定ならば年金が月に7万円もらえるそうでこれくらいあれば、ひとりで生活できます。15年くらい前から続けていて、最初は月4000円の掛け金でしたが、値上がりして今は6900円です。親の年齢に応じて掛け金が変わるはずなので、各自治体の福祉課に確認してください。
リンパ腫
色々書きましたが、次回は幼稚園から養護学校高等部までの進学について、いろいろ大変だった事を書きたいと思います。若い親御さんの少しでも参考になればと思います。
幼稚園の入園から話しましょうか・・・。
ウイリアムス症候群と診断を受け、日々発達の遅れをなんとか取り戻そうと必死だった3歳の事、娘が急に「お腹が痛い」といい始め、近所の小児科医に連れて行きました。腸の状態がおかしいという事で、近くの大学病院の紹介を受け、そこで3-4回診察を受けました。
ところがある日の晩、また「お腹が痛い」と言いだし、言葉の発達の遅れの為あまり詳しく伝える事ができないので、自分は「また赤ちゃん帰りして甘えてるんじゃ?」と思っていました。すると隣の部屋からおしめを変えようとした家内が、大きな声で叫び「ちょっと来てー!!」というので、どうしたのかと見に行きました。すると、おしりから何か白い物体が膨らみながらはみ出しており、これは絶対おかしいと思ってすぐに大学病院まで連れて行きました。
小児外科の医師が宿直でしたが、「これは腸重積かも」と言われました。腸重積とは大腸が消化活動をするうちに小腸を飲み込むような形で重なり、腸閉塞をおこして激しい腹痛が症状として出る病気です。このまま放置すると、腸が壊死して重大な症状を招くから、一旦肛門から空気を入れて、小腸を大腸から抜けるようにして重積を解消する処置をします、との説明でした。
何度か処置室でやってもらいましたが、娘が痛がって「もう、おしまい!おしまい!」と医師にわずかなボキャブラリーを駆使して悲痛な訴えをする声が外で待っている私たちに聞こえてきました。お耳をふさぎたくなるような悲痛な叫び声に、いたたまれなくなると同時に、「赤ちゃん帰りで甘えている」と勘違いしていた私は、子供に「許してくれ、お父さんが悪かった・・・」と心の中で何度も叫びました。
医師が処置室から出てきたのですが、「空気を入れても解消しないので、開腹手術をして腸を切除しますから、同意書にサインを」といきなり言われ、気が動転しました。もう時計は深夜1時をさしていました。こんな夜中に手術?? 「腸を切るって今やらないといけないんでしょうか?もう少し考える時間が・・・」と言ったものの、医師は「このままでは命に関わります」とまで言うので、慌てて同意書にサインしました。手術への同意だけでなく、輸血が必要な場合に万一の事があっても訴えないとか、色々怖い内容が書いてあるのですが、とにかくその時はあまり詳しく読まず、言われるままサインしました。
すぐにその医師が手術室に入り、私と家内は外で何とか助かって欲しいと祈り続け、手術が終わるのを待っていました。深夜2時から手術が開始され、途中で看護婦さんが出てきて状況を説明してもらいつつ、最終的に夜が明けた朝5時半に手術室から子供がベッドに乗せられて出てきました。目をぱちぱちさせながら出てきたので「ああ、生きてる。助かったんだ・・・」と心のそこから安堵し、ベッドの横に駆け寄りながら病室までついていきました。
その後執刀医から説明があり、「腸を30センチほど切りました」といって切った小腸を見せてもらったら、直径2センチくらいの小腸の中に大人の親指爪大の腫瘍ができていて、これが小腸をふさいでいたとの説明でした。30センチも切った事については、「小腸は何メートルも有るから30センチくらい切っても大丈夫」、と私たち素人ではびっくりするような話を医師は普通に説明されました。
それよりも大きな腫瘍ができていたことに驚きました。小児科の部長が来て「悪性でなく良性であることも考えられるからあまり心配しないで」と言われましたが、その時は何気なく聞き流していました。
2週間ほど入院し、うまく腸がつながっていれば退院できるとの話で、ほっとしてました。家内は子どもに付き添う形で一緒に病室で寝泊りしてました。退院直前に家内から電話があり、「医師から話があるそうだからすぐ来て欲しい」との事。嫌な予感を感じつつ、病院に向かいました。すると医師は手術した小児外科の先生ではなく、小児内科の先生でした。
「腸にできていた腫瘍を検査したところ、悪性でリンパ腫でした」との説明を切り出され、また気が動転しました。悪性のリンパ腫って何??またまた頭には?マークばかり。説明によると血液性のガンで、白血病に近いものということ。血液中のリンパ球がガンにより減少し、病気にかかりやすくなるとのこと。治る確率は60%くらいで、抗がん剤による化学療法をやりますとのこと。じゃあ残りの40%は治らないとの事ですがそれはどういうことになるんでしょうかと聞くと、
「それは死亡するということです」
もう、頭がぐしゃぐしゃです。ウイリアムス症候群といわれた時も、発達センターの医師から急に説明するから来てといわれ、なんでウチばっかりこんな目に合うんだと、とにかくぶつけようの無い怒りばかりでした。開腹手術した際、腹部の周りのリンパ節も腫れており、標準治療としては3ヶ月なのですが、大事をとって6ヶ月の化学療法コースにしましょうといわれ、半年間の入院生活が始まりました。
一旦外泊していいということだったので、家に子供と一緒に戻りました。夜一緒にお風呂に入り、お腹の手術痕の傷を見て「お父さんが悪かった。ごめんね、ごめんね」と泣きながら子供に謝りました。子供は、「いいよ、いいよ」とニコニコしながら許してくれました。
風呂場で号泣しました・・・。
それからというもの、3歳の子供にとっては大変な治療がはじまりました。
髄注といって骨髄に直接抗がん剤を注射し、大人でも失神するくらいの痛さだそうですが、小娘はぎゃあああーーーと悲鳴を叫びながら処置室で、注射を打たれていました。それから点滴でも抗がん剤を注入され、その日は白目を剥いてよだれを垂らしてベッドにうつ伏せで寝ていました。死んでるんじゃないか?と思うくらいでした。
見る見るうちに髪の毛が抜けてしまい、つるつるになってしまいました。口内炎ができやすいので吸入をするのですが、上手く口があけられず、あまり効果がありませんでした。
同室の子供はウチ以上に重症で、骨と皮ばかりになってる5−6歳の女の子は、自分でたつこともできず、喉にアナをあけて呼吸器をつけていました。非常にか細い声で話しをするので、ベッドのすぐそばまで近寄ってはなしをするのですが、その姿はホントにかわいそうなくらいでした。
家内は付き添いを続け、私は会社に行く為自宅にもどり、毎朝晩に神社からもらったお札に祈る事しかできませんでした。半年間つづけました。半年は季節が3回過ぎ去るのですね。5月の晩春に入院し、暑い夏があっという間に過ぎて、退院する秋になり外はもう肌寒さを感じるようになっていました。
その間、またまた悪性リンパ腫について調べる日々が続き、横浜で小児ガン学会が開かれるのを聞いて、みなとみらいにあるパシフィコ横浜まで学会に出席しました。小児ガンの先駆者的医師の聖路加病院の先生の話や、ケースワーカーによる個別相談を受けました。
入院中に白血球が急激に減少して、輸血が必要となり、クリーンルームという完全換気の部屋に移され、子供とはビニールのシートで遮られた部屋で1週間過ごしたこともありました。それは抗がん剤の副作用だから正常の反応であることも、ケースワーカーに相談して納得しました。抗がん剤は大人よりも子供にはよく効くのだそうです。夏目雅子さんのヒマワリ基金についても学びましたし、義理の姉妹の田中好子さんのガン患者へのサポート活動も知りました。
進学:幼稚園
9月になって、幼稚園の入園願書受付時期がきました。
近所の幼稚園に事前見学を申し込みました。行くと小奇麗で、先生も園児もおしとやかな感じで印象はよかったのですが・・・。病気のこと(ウイリアムス症候群と悪性リンパ腫)を園長に話したところ「そういう手のかかる子供はウチで預かれない」ときっぱり言われ、大ショックを受けました。
あまりに冷たい発言に、まるで障害者差別を受けたように感じました。こんな園長で子供は幸せなのか?と大いに疑問を持ち、こんな幼稚園にダレが世話になるもんか!と怒って帰りました。一方で、差別を受けた気持ちが大きくなり、落ち込みました。次に見学を予約していた幼稚園に行く足取りが重くなりました。
次の幼稚園に行ったところ、翌日が文化祭みたいなイベントが予定されていたらしく、忙しそうだったので、「ちょっとここも面倒くさがられて、追い払われるかな」と思いつつ、園長お会いしました。すると園長は「じゃあまず保育の状況を見てもらうため、教室にいきましょう」と誘われ、園内を一緒にみて回りました。
園長はある教室に入って、すぐに先生と園児に混じって踊りを踊り始めました。私がびっくりしていると、いつもこうなんですよ私は子供が好きだし、子供も好いてくれます、と語ってくれました。園長自ら子供と交じり合うのか、へーッと思いました。この幼稚園は前に見学に行った幼稚園とは正反対であまりきれいじゃなくて、印象はあまりよくなかったのです。
事前に他の父兄から「あの幼稚園は園長が変わってる人だ」と聞かされていたのでその片鱗を見たような気がしました。部屋で打ち合わせに入ると、いきなり「ウチの園の方針は子供が主役で自由保育です。園長が急に教室で一緒になって踊ったり歌ったりするのは当たり前。子供が教室から飛び出してしまう事もありますが、先生には追っかけて連れ戻してはダメと言っています。」「木の上に子供が上ったら、一緒にその木に登って景色を見てご覧、そうすると大人の視野とは全く違う景色を子供たちは見ていることが分かるから、子供目線でモノを見るようにしてもらってる」
この先生ならと思い、躊躇していた子供の病気のことを思い切って切り出したところ、ウイリアムス症候群についてもっと知りたいので教えてください、といわれ一生懸命メモを取っていらっしゃいました。
まだ病気が詳しく解明されていないことや、特徴的な反応などを伝えたところ、「社会の数%は障害者がいます。子供のうちからみんないろいろな個性のある人がいることを教えるのも、園児への教育のひとつです。子供の中でいじめは無い様に気を配りますし、世話を焼く女の子はどこにでもいるので、そういう子がいることを学びつつれみんな社会性を身に付け、楽しく幼稚園生活を送れますから、是非ウチに預からせて欲しい」とまでいわれてしまいました。
園長は翌日文化祭のイベントがあるにもかかわらず、まだ入園するかどうかも分からない子供の父親の話に3時間も付き合ってくださいました。
前の園長とは根本的に思考が違う事に驚きました。私から悪性リンパ腫(小児ガン)のことについても話し、園長先生は泣きながら話を最後まで聞いてくれました。
この幼稚園にぜひともお世話になろうと思いました。
園長は子供がとにかく主役で子供目線で全てを考える人で、卒園式には壇上から卒業証書を園児に渡すのではなく、自分が壇の下におりて、園児を壇上に上がらせ、下から証書を渡すということをやっています。常に子供目線なのです。この園はいつも定員いっぱいで、入園者が絶えません。
3年間この幼稚園にお世話になって幸せでした。17歳となった今でも、娘が幼稚園に行くと園長先生は大歓迎してくれてお話をしてくれます。娘も園長先生が大好きです。次女もこの幼稚園に入れてもらいました。
世の中にはいろいろな人がいるのだなと思うと同時に、ものの見方は一つではなく正反対なことを考えられるのだと、私も勉強になりました。
進学:小学校以降
小学校に上がる時も事前に校長に話しにいき、ベテラン先生を担任にしていただくことができました。暖かい配慮に感謝しています。その先生もとてもいい人で、娘の学校での様子をよく報告してくださり、できなかった事ができるようになったら自分のことのように嬉しく思ってくださって、ウチに電話してきてくれました。
高学年になると、病弱だった娘も風邪すら引かなくなり毎日学校に行くのが楽しみでしょうがないようになりました。親学級に在籍しつつ、算数や国語は特別学級に通級する形をとってもらったおかげで、通常クラスから教室移動するときも、付き添ってくれる友達もできてとても楽しい学校生活を送っていました。
男の子の中にはヘンなあだ名を付けてくる子がいたそうですが、娘もそういう時はすぐ担任の先生に言いつけてるらしく、たくましさも増して来ました。
小学校卒業の時は、すでに転勤された1年生時の担任の先生に報告の葉書を送ったところ、先生から大喜びの電話を受けました。葉書が来たと周りの先生に喜んで見せて周ったそうです。
中学ではさすがに通常学習はムリだったので、親学級はあるもののいつも特別学級にいて小学校5年生くらいのドリルなどをやりました。九九は完全に覚えられたので漢字を中心に勉強しました。なぜか英語が得意になり、外国人先生にも物怖じすることなく話しかけ、職員室へも平気で行って話しをして帰ってくるという、大胆さも身につけられるようになりました。
特別学級の先輩の男の子と学校帰りに一緒に道草をして、帰宅しないと大騒ぎとなり先生総出で探し回った事も有り、その時は私もかなり怒りました。その男の子も思春期だから付き合いは気をつけるように言って貰いました。
結局3年間、無遅刻・無欠席で通う事ができ、愛知県知事から模範生徒として表彰される事になり担任の先生もその連絡を愛知県から突然受けてびっくりし、とても喜びました。
高校は養護学校をいくつか見ましたが、レベルの高いところとそうでないところがあり、高いところは軍隊式で整列して教室移動したり、実習も先生の厳しい指導があって、娘は見学の時に尻込みしてしまい、結局普通の養護学校に行く事にしました。学校からもレベルの高いところは就職率はほぼ100%だが、そもそも競争率が高く合格する可能性が低いと高校から連絡があったらしく、自分のレベルに合うようなところにしました。
合格発表の日、養護学校に観に行きました。受験者全員が合格するのですが、それを知らされていない娘はドキドキ。自分の受験番号を見つけると、小躍りして「やったーやったーうかったよー」とひとりとても嬉しそうでした。中学に合格の報告に戻る途中、特別学級の後輩達に会って受かった事を告げると、その子達もまるで自分のことのように小躍りして喜んでくれて「よかったねーよかったねー」と抱き合って喜んでました。
受かった養護学校は行くとすごいです。失礼ながら動物園かと思うくらい。すっと先生が付き添っていないといけない多動の生徒や、急にジャンプし始めて止めない男子生徒。体格もいいので大人ひとりではとても止められません。
そういった中、娘はまだ人の言う事はきっちり聞ける方なので、色々な役をやらせられています。部活もフライングディスク部というフリスビーの部にはいったり、陸上部から声をかけられ、100メートル走や400メートルリレーの選手として引き抜かれたりしています。今振り返ると、学校の先生やお友達に恵まれたなとつくづく思います。
娘は、日曜ヨルとか夏休みの終わりになると「早く学校はじまらないかなー」と学校に行きたくて仕方ない様子。これも周囲の方々に恵まれたおかげだと思います。健常者でも、引きこもりになって学校に行けない人が多い事を考えると、学校に行きたくて仕方が無いなんて贅沢この上ないです!
就職
今、長女の卒業後の進路を考えるために、企業にいって実習をしています。二回程行って、評価が良ければ採用につながるそうで、一生懸命にやってきました。但し、学校の方針と行き違いもあり、自分で見つけてきた企業への実習ができるかどうか微妙な事になってしまったので、改めて学校と相談するつもりです。
もう少し、学校側も方針や情報をキチンと親に伝えてくれないとわからないので、行き違いが生じるのだと思います。障害のある長女(高3)卒業後の進路に関しては、通っている養護学校の進路指導がとても頼りないので困ってます。
学校から卒業後の進路指導予定に関して情報発信が少なく、今年に入っても高3になったら何がいつ必要かということも言ってくれないような状況でした。先日、高3に進級してようやく進路指導について説明会がありましたが、遅すぎると思います。高2の後半からもっときちんとした説明が必要です。
実際に、2-3月に志望企業で実習がなされ、会社によってはそれが選考試験のひとつの条件になっているところがあります。先日うちの娘が実習させてもらった特例子会社はそうでした。
3月の特例子会社での実習は私が自ら親友のつてを頼って何とか受けてくれたのですが、学校から「勝手に実習を決めてきてもらっては、他の生徒も同じ会社に実習に行っているので学校としては困る」ということを言われ、非常にあたまに来ていました。私が2月末にその特例子会社になんとか頼み込まなければ、既に門前払いになっていたタイミングでした。
他の生徒さんが何故その会社に実習に行けたのか詳しい経緯はわかりませんが、学校からその特例子会社は2−3月の実習は必須という説明はこれまでなにもなく、あやうく選考すら受けられない状況になるところでした。
この経緯に関して説明を受けるべく、親と進路指導の担当と担任で、3時間くらい学校で話し合いました。進路指導の先生は、自分の娘に関してその適性を考慮して違うところに実習をすすめたと説明し、もしそこがダメなら学校としても全力をあげて、進路を確保するといっていました。これまでそんな話は全く聞いていないし、親に言わなきゃ学校がどれだけ子供の進路に関して一生懸命考えているかわかりません!
とりあえずほったらかし、ではなさそうなんでその場は学校に敬意を表しておきましたが、学校は過去の進路指導の経験・蓄積があるんだから、その知見や各生徒への進路の考え方を、親にきちんと説明する必要がある、と訴えました。
養護学校ですから、就職はおろか就労支援移行の事業所に進むことすら難しい生徒も多く、一律に進路を語れない難しさはあると思います。が、親は卒業後どこにもいけなくなることに大変な不安をもっています。第一志望だけでなく第二・第三志望もきちんと対応できるようにしておきたいのです。親がそういったことも検討できるような情報提供を学校から受けられない状況では、初めて卒業後の進路を経験するわれわれ親は迷うばかりです。
また、以前(昨年6月頃?)担任から「具体的に就職したい企業はあるか?」と質問を受けた時に、家内から「ユニクロやサイゼリヤなど障害者採用に積極的な企業を検討しており、どうしたら良いか教えてほしい」と担任と保護者面談の時に言って、昨年秋にもその件はどうなったかと担任に聞いても回答なし。
先日の3時間の面談の時に、再度どうなってるのか問いただしたところ、進路指導の先生は即答で「ユニクロやサイゼリヤは定期採用ではなく、欠員あれば採るので3月卒業のタイミングが合わず、進路対象としては不向き」といわれました。そんな回答なら去年できたでしょうに!!もう唖然としてしまいました・・・。しかも、この四月にその進路指導の先生が異動になってしまいました。
なんとか来年以降の進路指導のカイゼンに繋げて頂くよう、学校には改善対策の立案をお願いしてきましたが・・・。(なんで自分が学校の進路指導を「指導」しなきゃいけないのか…がっくりです)。
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