自伝(第一部)



米国WSAの会報に掲載されていました。

(2004年10月)

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My Autobiography ? Part 1

By Bobbie North
"Heart to Heart" Volume 21 Number 2 September 2004, Page 18-19

 2001年の暮れ、母が亡くなる数ヶ月前のことです。私はママの部屋にいて、机の引き出しの中にある家族の記録を探していました。ママはベッドに横になっていました。引き出しのひとつを開けると、今は亡き父の筆跡で私の名前が書かれたマニラ紙の紙ばさみが目に入りました。その紙ばさみを取りあげて見入っていたとき、ママが心配になって、「ねえあなた、元の場所に戻しておいてね。いいわね?」と言ったので、その紙ばさみをも元に戻しました。

 「なぜ、母はそのような態度をとったのだろうか?」と思いましたが、その疑問を振り払い、母の望みどおりすることにしました。

  母は2002年3月に他界しました。その数ヵ月後、引き出しを整理しているときに、あの紙ばさみを見つけました。そこには、私がまだ幼かった頃に受けたたくさんの神経関連の検査報告書がありました。母が書き込んでいた手帳サイズの記録簿も見つかりました。そこには、歯が生えた日、初めて物に手を延ばした日、初めて歩いた日などが記録されていました。私がまだ10代になったばかりの頃に、小耳に挟んだ両親の会話を思い出しました。父は私には何かの障害があることを母に納得させようとしていました。「そのことは話し合いたくない」と言って、母は父の話を聞こうとしませんでした。母は、まるでこわれやすいガラスでできた一角獣の置物のように、私をそっと大切にしまっておかなければいけないと考えていたようです。パパは、もっと自立しなさいといつも私を励ましてくれました。私は過保護を受けていると感じていたので、いつも自分で生計を立てたいと強く望んでいました。

 私が4歳半のときに、母が私を連れて特殊学校を見学に行ったことを覚えています。生徒一人ひとりに教師がついてくれる学校が私には必要だと感じていたようです。カリフォルニア州ノース・ハリウッドにあるダブノフ学校(Dubnoff School in North Hollywood, California)に入りました。その学校には、学習障害・びっくりするような癇癪持ち・視覚障害などいろいろな問題を抱えた子供たちがいました。その学校にはたくさんの思い出があります。私はその学校の先生を尊敬していたし、今でもその気持ちに変わりありません。シャーリーン(Charlene)という、生徒にとても忍耐強く接する先生がいました。生徒をがみがみとしからずに、断固として、やさしく、けして脅したりせずに正しい方向に導いてくれました。ロサンゼルス港のボートに住んでいるベティ(Betty)という先生もいました。私の音楽の先生で「ミスB(Miss B)」と呼ばれていました。彼女は私の手を取り辛抱強く静かに私にスキップを教えてくれました。

 ダブノフにあった大きな木の家が忘れられません。その家はこげ茶色で、内部にはクリーム色のはしごがあって二階に続いていました。大きなテラスに登って、海賊や船乗りごっこをしました。学校の敷地内には、砂場に放置されたように置かれている、色あせた赤いポンコツ車がありました。枠組みしか残っていなくて、窓ガラスはありません。ハンドルはくるくる回り、シフトノブはあらゆる方向にカタカタと動きました。友達といっしょに運転手になったつもりでお互いの家を行き来するごっこ遊びがとても楽しかったことが忘れられません。ポンコツ車の近くにはトランポリンがありました。黒くて光沢があるビニールでできた長くて大きなトランポリンでした。休み時間にはクラスメートが遊んでいるのを眺めていました。私がトランポリンに登る番になりましたが、怖気付いてしまいました。クラスメートはがんばって登れと励ましてくれました。怖くて心配でしたが、とうとう登ることができました。一度トランポリンに乗ってしまうと、とても楽しい時間でした。降りるのがいやでいやでたまりませんでした。

 3年生が終わったとき、突然びっくりすることを言われました。ダブノフは3年生までしか学年が無いので、他の学校に行かなければならないのです。私は自宅からさほど遠くなく、特殊学級がある公立学校に転校しました。私の担任はランドール先生(Ms.Randoll)でした。数年後、町の郊外で先生がバイクに乗っているのを見つけて、駆け寄ったことがありました。先生は私のことを覚えていてくれて、卒業以来私が経験したことを一生懸命に聞いてくれました。

 中学校に入る時、姉が通っていた普通学校に通う決心をしました。「普通(normal)」の子供たちが通う学校に行けることは、とてもすばらしいことだと期待していました。しかし、期待に反してたくさんいじめられました。おさげ髪を引っ張られ、持ち物は「のけもの」ゲームの道具にされました。私がだまされやすいことを試すようなうそもつかれました。不幸なことに、これらのいじめは教師や管理者が回りにいないお昼ご飯のときに行われました。最初は仲良しにみえた友達の中にも、私のように疑うことを知らず、だまされやすくいじめの対象になりやすい子供をいじめるギャングたちの仲間になってしまう人がいました。意地悪でぞっとするような子供はどんなものかを初めて感じました。

 社会的には公立学校はどれも同じようなものでした。でも、たった一つ私が好きな芸術の時間だけは違いました。芸術を教えている先生はいつも才能を持った生徒を励まし、学期末には優秀な作品を作った生徒に認定証を渡していました。私の名前も呼ばれました!

 卒業後、地元のカレッジに入学しました。新学期、私は資格を取って卒業後し、その後就職できるというばら色のイメージを持っていました。芸術コースはとても気に入っていましたが、芸術には就職資格はありませんでした。秘書コースの授業も取りましたが、教授は私のように数学が苦手な生徒には特に厳しい対応しました。次に美容術のコースを受けましたが、インストラクターからは十分な個人的指導が受けられませんでした。それだけではなく、パーマやまつげのカールのような処置に対する時間的プレッシャーが、私にはとてもストレスになりました。そのうちに、資格が取れるインテリアデザイン部門に興味を持ち始めました。そのコースがとても気に入りました、私のレベルはその夢のようなコースには不足していました。私はある学期を休学して、戻ってきたときにはその資格を取るために必要な条件がまったく変わっていました。人生は公平ではないと感じ、あきあきしていたのもあってしばらくの間学校を休学しました。

 ビジネス社会をちょっと味合わせてくれるとともに、カレッジはいろいろな選択肢を試す機会を与えてくれました。新しい芸術技巧を習い、それを絵画で試してみました。とても仲のよい親愛なる友達もでき、後にはその人の援助で喫茶店内のギャラリーで共同展覧会を開催しました。

 80年代の初め、UCLA医療センターの肺クリニックでボランティア活動を始めました。次の部署は歯科で、その次は皮膚科でした。その後小児科に長くいました。私は補助員として、注射のご褒美としてあげるステッカーを準備したり、書類をそろえて綴じたり、他の科を受診する患者さんのための書類一式を作ったり、コピーとりをしました。

 1985年の秋になって、ずっと挑戦したかったインテリアデザインコースを受ける自信ができました。しかし、コースの半分まで進んだときに、ドロップアウトしなければなりませんでした。神経の治療の為、首の融合手術(neck fusion)を受ける必要がありました。医者は数ヶ月間、固定用の支柱(ハロー:haloと呼ばれています)をつけたまま生活することになると言いましたが、手術に同意しました。私は手術そのもののほうが心配でした。もしも外科医のメスが滑って、車椅子の生活になってしまったらどうしよう。

 手術が終わったあと、痛みとともに目が覚めましたがまったく動けませんでした。ハローは文字通り私の頭蓋骨に四本のピンで固定され、4本の支柱(2本はが前、2本は後ろ)が支えていました。支柱は、肩からウエストまでを覆うやわらかいフリースのようなベストにつながっていました。しばらくの間この支柱がとても気になって、訪問を受けることも、出かけることもいやでした。しかし、そのうちにこれは健康的な普通の感情ではないと気付きました。長い間UCLAでボランティア活動ができなかったことも考えました。最初はためらいましたが、自分の過去を話すことにしました。ボランティアスタッフも友達も私に会うことを喜んでくれたので、とても気分がよかったです。残念なことですが、前もってハローに関する冗談を準備しなければなりませんでした。たとえその話題に触れたくないときでも、私がまるで天使に見えるという感想に感謝を述べ、どこの惑星から来たのかと問われるので「冥王星から」と答えなければなりませんでした。

 約一年後、もっとがっかりするニュースがありました。小児科でのボランティア活動が医学生に経験を積ませるための機会に当てられることになり、私はボランティアを続けられなくなりました。この時期、私は別のインテリアデザインコースに通っていました。あまりうまくいかなかったので、学校をやめることにしました。しばらくするうちに、看護学校に移動し、研究室のハウスキーピングの仕事を始めました。これは私がどうしてもやりたかた有給のパートタイムの仕事で、未熟児の研究している教授の補助業務です。彼女の研究助成金が終了したあとは、8年間臨床研究室でボランティアとして働きました。そのときのボスは今でも最も親しく付き合っている友達です。病院でボランティアをしているときが一番幸せだと感じているし、世界的な仕事をしている教授から学ぶことができます。

 10年以上前のことですが、家族同士の付き合いがある友達がウィリアムズ症候群に関する記事に偶然出会いました。彼女は記事に書かれた記述と私自身の類似点に気がつきました。最初に私の姉と話し、次に私に伝え、2002年にロングビーチ(Long Beach)で開催されるウィリアムズ会議に参加するように熱心に勧めました。2003年5月、神経遺伝学の専門家である医者の診察を受けに行きました。彼らはいろいろな測定を行い、写真を撮り、そして姉と私の写真も取って姉妹に関する情報も手に入れました。家系図を作成し、私の芸術活動・趣味・音楽に関する興味に関して質問しました。遺伝子検査には時間がかかることがわかりました。私がウィリアムズ症候群なのかどうか、知りたくて我慢できません。

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 ボビーとお姉さんは2004年にグランドラピッズ(Grand Rapids)で開かれた会議に参加しました。ボビーは今でも診断に関する答えを捜し求めていて、もっとよく知るためにグランドラピッズで多くの研究者と話し合っていました。彼女は自作の絵をたくさん持ってきて(そして売れました)、売上金をすべてWSAに寄付してくれました。ボビー・ありがとう。



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