ハンマーで脳を叩く



標記単行本の第11章「極端を追う」の一部として記述されている。なお、原著作は1998年に発行されているため、下記の内容はそれ以前の情報に基いている。

(2003年3月)

−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=− プロメテウスの子供たち(加速する人類の進化)、302-305ページ
Children of Prometheus
Christopher Wills著、長野 敬+森脇靖子 訳
青土社 2002年発行 ISBN4-7917-5965-6

いま分子生物学者は、精神遅滞を起こすそれほど一般的でない別の遺伝的な欠陥を、詳しく調べている。そのうちで最も注目を引くのはウィリアムズ症候群で、これは出生児の二万人に一人の割合で生ずる稀な病気である。

ウィリアムズ症候群の人は虚弱で、心臓に問題を抱えている。患者の顔はやせこけ、顎がとがり、「尖り帽子のよう」だと形容されている。眼の虹彩はレース状になり、軽症から重症のものまでさまざまな度合いの精神遅滞を示す。ところがその遅滞には奇妙なところがあって、なぜか選択的である。

ウィリアムズ症候群の犠牲者は陽気で外交的で社交的であり、しばしば優れた音楽的才能をもつ者がいる。ウィリアムズ症候群の子供は。動物の名前を問われればアパトザウルスとかユニコーン(一角獣)そしてシマウマなど、神話上の動物、絶滅した動物、実在の動物などびっくりするような動物たちの名前を思いつくことがある。

多くのウィリアムズ症候群の子供たちは、そのほとんどが読み書きに限界があるにもかかわらず、いつか作家になると想像している。彼らの大部分には、もう一つの奇妙な欠陥がある。ある形を、その構成部分から組みたてることができないのだ。ウィリアムズ症候群の子供の描いた自転車は、見たところめちゃくちゃなやりかたでつなぎ合わされたひどく歪んだしろものであった。

ある知的能力は明らかに残っているのに別の能力が損傷を受けるというこのパターンは、ウィリアムズ症候群へ大きな関心を起こさせてきた。明らかに遺伝的であるウィリアムズ症候群は、何らかの脳機能をコードしているがそれ以外の別の脳機能にはほとんど影響を与えない遺伝子の損傷によって、引き起こされるのだろうか。ということは、こうした特定の行動に対する遺伝子があるのだろうか。

ユタ大学と五つの研究所の研究者からなる大勢のグループによって、ウィリアムズ症候群の遺伝について、現在いくつかのことが明らかにされている。劇的な方法で相互に関連をもち、特定の行動に影響を与えることがあるように見える複数遺伝子の中の一つの遺伝子についての話しである。

この症候群は、第7番染色体の小さな欠失によって起こる。欠失の大きさはウィリアムズ症候群の人によって異なり、さまざまである。10数個の遺伝子がなくなるほど大きいこともあれば、時にはわずか2個の遺伝子しか失われないほど小さいこともある。この欠失染色体をもったヘテロ接合体の人は、この領域で遺伝子のコピーを一つだけ持つことになる。残っているこの遺伝子は、両親の一方から受け継いだ欠失のない染色体上にある。これはダウン症候群と全く逆の状況であることに注目しよう。ダウン症候群では問題は多すぎる遺伝子によって起こるが、ウィリアムズ症候群では少なすぎる遺伝子によって起こる。

ウィリアムズ症候群をもたらす欠損の中に常に含まれると思われる一つの遺伝子は、エラスチンと呼ばれるタンパク質をコードしている。このタンパク質は動脈壁の柔軟性と強度を高める。しなわちこのタンパク質の不足によって、循環器の問題とこの病気に特有の奇妙なレース状の虹彩は説明できる。しかし、これだけでは、精神遅滞に特有の症状は説明できない。なぜならば、エラスチン遺伝子を一つだけもっているが近くの遺伝子には欠損のない人も中にはいるからである。これらの人々は同じように循環系に問題を抱えているが、大部分は知的にまったく正常である。

精神遅滞に関与しているように見えるのは、別の遺伝子の欠失である。ユタ大学の研究者は、一個のエラスチン遺伝子と近傍の遺伝子一個だけを失っている非常に小さい欠失の持ち主を調べた。この人々は精神遅滞ではないが、この症候群に特徴的な身体的な外観と循環系の問題をもっていた。ところが彼らは、ウィリアムズ症候群に特徴的な行動を非常に健著に示した。つまり統一の取れた絵を描くことができなかった。

エラスチン遺伝子ではないこの第二の遺伝子が、脳機能に影響を与える遺伝子である可能性が高い。この遺伝子はエラスチン遺伝子とはちがって、脳のさまざまな部分でオン(活性状態)になっている。この遺伝子は、細胞内で別のタンパク質を化学的に変化させるタイプのある種のタンパク質をコードしているが、それ以外のことは何も分かっていない。なぜその遺伝子が脳機能に影響を与えるかは、まだ謎である。それにもかかわらず、タンパク質が少なすぎることが、この注目すべき選択的な精神遅滞を招くにちがいない。

この遺伝子が一つだけで作用を及ぼすことはなさそうだ。まず、この遺伝子はエラスチン遺伝子と相互作用するかもしれない。この脳タンパク質の遺伝子のコピーを二つもち、エラスチン遺伝子のコピーが一つしかないひとは、その大部分が正常にみえる。しかしエラスチン遺伝子のコピーを二つもち、脳機能遺伝子のコピーが一個だけという逆の場合はどうなるだろうか。研究チームのマイケル・フランギスカキスによれば、そうした人を探したがまだ見つかっていないということだった。わずかな学習障害をもつ多くの人々の中で発見されていないのかもしれないし、あるいは一般の人々の中のどこかに、完全に自覚症状のないまま隠れているかもしれない。

この話しは、第9章で触れたレーバー視神経障害(レーバー病)の話しと似ている。あの病気では、ミトコンドリア突然変異の有害な作用は最も苛酷な条件でのみ発現するが、同じ小さな損傷をもつミトコンドリアは、身体の大部分の細胞では正常に機能できる。同じようにウィリアムズ症候群の人々は、神経細胞の大部分ではこの脳タンパク質を十分に作れるが、発生途中の緊要な時期に充分量のタンパク質を作ることはできないことが原因で、特に損傷を受けやすい細胞があるのかもしれない。

この第二の遺伝子は特定の行動の遺伝子だろうか。あるいは、そうかもしれない。しかし、可能性がはるかに高いのは、他の多くの遺伝子と相互作用しているということだ。脳はきわめて複雑な器官で、遺伝子と遺伝子間、あるいは遺伝子と環境間の非常に多くの複雑な相互作用の結果としてできてくるので、特定の機能が単一遺伝子に支配されているというふうにはなりにくいだろう。

エンゲルマン、ランガー・ギードン、プラーダー・ヴィーリのような名前をもつ非常に多様な症候群があり、各染色体上の小さな欠失にその原因が突き止められている。これらの欠失の中には単一遺伝子だけのものあるが、大部分ではウィリアムズ症候群のように、二個以上の遺伝子が失われる。そして幅広い領域の症状を引き起こす。いずれウィリアムズ症候群のように、これらの症状の原因は特定タンパク質の欠損までたどられるだろう。しかし、これらのタンパク質が、これらの行動欠陥を支配するタンパク質だとは思いにくい。むしろそのタンパク質の合成量が少ないと、協働する多くの異なる遺伝子の総計である脳の複雑な機能に障害がもたらされるのではないか。そのようなことが発見されるだろうと、私は予言しておきたい。



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