(2000年2月)
脳と心の地形図
(Mapping The Mind, 1998)
Rita Carter 著、藤井留美 訳、養老孟司 監修
原書房 1999年 初版発行
P205-207 ページ
言語という伝達手段
伝えるべき中身より、言語という器のほうがはるかに大きいために、薄っぺらな
考えを思いきりふくらませて器を満たそうとすることがある。必要以上に正確さを期
そうとするのか、多彩な言葉をよどみなく紡ぎだすわりに、結局「何も言っていない」
人は身近に必ず存在する。ぱっと見には社交上手で才能豊かな印象だが、親しい人に
聞けば中身はうつろだとわかる。
その状態が極端になったのが、ウィリアムズ症候群と呼ばれるものだ。その代表
例がアレックスだろう。彼は赤ん坊のとき、ふつうの子のようにバブバブ言わなかっ
たし、もう少し大きくなっても、「マーマ」「ダーダ」とは言わなかった。三歳のとき
に知恵遅れの徴候が現れたが、それでも言葉はまったく出てこなかった。
ところが五歳のとき、アレックスがついに発した最初の言葉は驚くべきものだっ
た。それはある暑い日、主治医の待合室でのことだった。アレックスは落ちつきがな
く、待合室に持ちこまれたポータブル型扇風機によちよちと近づいた。母親が引きは
なすが、彼はすぐ扇風機に近よって、回転する羽根に指を突っこもうとする。それに
気付いた受付の人が、扇風機のスイッチを切った。アレックスは怒ったようにスイッ
チを入れた。受付が、今度はプラグをコンセントから抜いた。アレックスはコンセン
トのところにはって行ってプラグを差しこみ、スイッチを入れた。しかたなく、受付
はプラグを抜いて、彼の手の届かないところに置いた。
アレックスはお手あげだった。明らかにむっとした表情で、スイッチをいじった
り、コンセントをつついたり、扇風機の台座を揺らしたりしている。周囲の人は、て
っきり彼が怒ってうなったり、幼児らしい抗議の声をあげるものと思ったが、そのか
わりアレックスは生まれてはじめての言葉を発したのだ。「しょうがないな! この扇
風機、動かないよ!」
この瞬間から、おとな顔負けの完全な言葉がアレックスの口から次々とあふれだ
した。すでに学習を終えた言葉をひたすら貯めこみ、噴出する機会をじっと待ってい
たかのようだった。九歳になるころには、語彙や文法、構文はもちろん、抑揚と強調
のしかたもおとなと寸分たがわぬようになった。態度も自信たっぷりで外向的になり、
カクテルパーティでのベテラン外交官さながらに、部屋から部屋へと歩きまわった。
だが話す中身はというと、はじめて指摘した扇風機のレベルから一歩も出なかった。
これからもそうだろう。
ウィリアムズ症候群は遺伝子の突然変異で起こる精神遅滞で、身体的な特徴もさ
ることながら、言語能力だけが異常に突出する。直感と共感はすぐれているが、IQ
はダウン症候群並みの50-70程度である。ウィリアムズ症候群の10歳の子どもに、食
器棚からこれとこれを取ってきてくれと頼むと、訳がわからなくなってちがうものを
持ってくる。靴ひもを結べないし、15+20の足し算もできない。自転車に乗っている人
を描いてもらうと、スポークとタイヤ、チェーン、足がごっちゃごちゃになった絵を
描く。ところが、思いつく動物を書き出させると、想像上の生きものも含めて実に多
彩な一覧ができあがる。ある少女は、ブロントサウルス、ティラナドン、シマウマ、
アイベックス、ヤク、コアラ、ドラゴン、クジラ、カバなどを挙げた。
ウィリアムズ症候群の子どもたちは、おしゃべりがとめどなく続く。知らない人
をつかまえてはいつまでも会話を続けるし、奇矯な感嘆詞を発したり、相手の言葉を
そっくりそのまま繰りかえしたりする。
「…すると彼女は言いました。『どうしよう! オーブンにケーキを入れっぱなし
だわ』私は言いました。それは大変! お茶の時間がだいなしね! 次に彼女は言いま
した。『すぐ家に飛んで帰らなくちゃ。』 ケーキが真っ黒焦げになるまえに出すのよ」
私は言いました。『そうだそうだっ!』…」
スタイルとしてはおもしろいかもしれないが、この手のお話しは日常茶飯事で、
しかもでっちあげのことが多い。だがウィリアムズ症候群の子どもたちは、相手をだ
ますつもりはないし、作る話しをすることで優位に立とうとしているわけでもない。
彼らにとって、言葉は情報を伝える手段ではない。言葉を操ること、それだけが彼ら
の喜びなのである。