みんなでつくる 芸術プログラム“ハッピウィリムン”



ハッピウィリムンスタッフ 榊 眸

「来年の夏にまた会おう」。私たちは、毎年この約束を胸に日々を過ごしている。それぞれの生活の中で、それぞれが自分の道を歩いているということを感じながら。たとえ遠くにいても、繋がっているように感じる。それは、一人ひとりの胸の中にハッピウィリムンで共に過ごした記憶が存在するからだろう。

平成14年からはじまったハッピウィリムン。ウィリアムズ症候群の子どもたちとその家族、教員、スタッフが4日間(72時間)を共にする。プレキャンプを含めると、今年で8回目のキャンプを迎える。毎年、新しい参加者を迎えながら、これまでのキャンプでの様々な人、音楽やものごととの出会いや体験が繋がり、次のキャンプが生まれる。キャンプのテーマ、Tシャツは、その年のキャンプを象徴している。

ハッピウィリムンのおもしろさは、参加するすべて人びとが、“共につくる”ということにあるだろう。活動の中には、ウィリアムズの子どもたちだけが対象のものだけではなく、親・きょうだい、その場にいる人すべてが一緒にかかわるものがある。お父さんお母さんが頑張って演奏したり、活動に挑戦したりしている姿を子どもたちが応援したり、きょうだいで互いの活躍を喜んだり応援し合ったり・・・そんな場面もある。また、それぞれが別の活動をしている時であっても、互いの声や活動の音が聴こえてくるような、自然にお互いの存在を感じられる、そんな場である。

また、活動の面だけではなく、キャンプファイヤーなど活動の準備の際におやじの知恵や力が、ご飯の際におふくろの味が、キャンプを支え、彩りを与えてくれる。誰かが困っていると誰かがそっと力を貸してくれる。互いの感じ合い、助け合いがあって、キャンプが動いている。

  キャンパーの中には、キャンプと共に歳を重ね、高校を卒業し、現在はスタッフとしてキャンプを支えているキャンパーもいる。そして、年上キャンパーの姿に憧れを抱いている子どもたちは少なくない。“キャンプは、自分にとってもみんなにとっても大切な存在なんだ。キャンプを続けたい、楽しいものにしたい。自分にできることは何だろうか・・・”年上キャンパーたちは、子どもたちが寝静まった後、“夜の子ども会”(平成17年・年長メンバーが堀坂山で宿泊した際に生まれた集まり)で語り合う。自分の気持ちを確かめるようにぽつりぽつりと語り出す言葉やその姿には、キャンプへの想い、みんなへの想いがあふれている。その姿に、繊細な優しさや、変わらない想いの強さ、頼もしさを感じる。

キャンプが終わると、教員、スタッフは、1年かけてキャンプの振り返りをする。それは、次のキャンプに向けての準備に繋がる。参加者の姿を思い浮かべながら、“ありのままでいられる場、お互いを認め合えるような場”について考える。また、活動について、楽しめること、おもしろいことを考えるのはもちろん、“子どもたち一人ひとりが持っているものを生かしたり伸ばしたりするにはどうしたらよいのか、子どもたちが苦手なことは、どうしたらわかりやすく、楽しみながら挑戦できるのか”と思いを巡らす。私たちにとってこの時間は、考え、勉強し、悩む時間でもあり、自分たちで夢を描いてみるドキドキワクワクした時間でもある。

ハッピウィリムンを通して、私たちは様々な人と出会い、かかわり合う。そして、活動の中で、子どもたちが、成長している姿、楽しむ姿、懸命に取り組む姿、思い悩む姿、乗り越えようとする姿、・・様々な姿に出会う。それは、子どもたちの気持ちや思いに気づく時でもあり、自分自身に気づく時でもある。活動を通して、子どもたちと様々な感情を共にし、思いが生まれる。「どうしたらよいだろうか」「何ができるのだろうか」。自分に問いかけ、考える。

“創る”“創出する”ということは、このような一人ひとりの“向き合う”ことの絡み合いがあって、はじめて生まれるように感じる。他者と向き合う、自分と向き合う、音楽や材と向き合う・・・様々な“向き合う”が“創出”の「もと」であるように感じる。「何が起こるかわからない」。このキャンプについて、そう表現することがある。そこには様々な意味があるが、それぞれがプログラムの中で、自分や相手、様々なものことと向き合い、感じ、考え、動き、変えていくというプロセスの存在も意味しているように感じる。そして、キャンプに参加するたびに、そのプロセスが大切な記憶として心に残り、時に、自分にとって生きる力になっていることを感じる。私たちにとって、キャンプの中で生まれた音楽、作品だけが、創出されたもの、残るものではないように思う。ハッピウィリムンは、そこに至るプロセスを含めた、共に過ごす“時”の創出であるように思う。

このように考えると、ハッピウィリムンは、とても夢のある時間であり、しかしそれは現実から離れたものではなく、“生きること、一緒に生きるということ”は、どういうことなのだろうか、という問いを含んでいるように感じる。

(2008年3月)



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