音楽で人と人を、心と心をつなぐ
「私のターニングポイント」黒岩音楽教育研究会主宰・音楽リトミック指導者 黒岩 貞子
月刊ケアマネジメント2008年8月 6-10ページ
蜂須賀裕子(取材・執筆)
「はい、左手はそのまま引っ越します」
「次はこの指が活躍するのよ」
「ほら、指がびゅんびゅん跳ねちゃう」
小さな背中と大きな背中がピアノに向かっている。よくあるピアノのレッスン風景だが、なぜがとても楽しそう・・・・・。生徒の山下泰生(たいせい)君はピアノを弾く前には楽譜を見ながらリズムを取ったり、楽譜を読んだりする練習もしたが、これもゲームをやっているかのように真剣で楽しげに見えた。
「最初はピアノの前におとなしく座っていることさえできなかったんですよ。普通の子のようにレッスンを受けられるようになるなんて思ってもみませんでした」と、キッチンからレッスンの様子をうかがっていたお母さん。泰生君は車、とくにパジェロが大好きな小学5年生だが、実はウィリアムズ症候群という病気を抱えている。ウィリアムズ症候群は染色体異常が原因で成長障害や先天的心臓障害などを伴う病気だ。そのため、時に集中力に欠けるが、性格が明るく、音楽の好きな人が多いのが特徴である。
「先生は叱り上手でほめ上手。息子はレッスンの日が近づいてくると、そわそわしてくる。宿題も自分でやるし、ほどよい緊張感がいいみたいですよ」
お母さんは泰生君が音楽に夢中になっていくさまを「まるで魔法のよう」と形容した。
音楽の力を再認識 ライフワークがまた1つ増えた
小学1年の時から泰生君の音楽指導をしているのは黒岩貞子さん。日本のリトミック教育の草創期からかかわってきた人である。リトミックとは19世紀待つから20世紀初頭にかけてスイスの音楽家エミール・ジャック・ダルクローズが提唱した音楽教育の手法だ。一言で言えば、音楽を体全体で味わい、音楽を感じる耳を育て、さらにさまざまなことを感じる心を育てる教育ということになる。
黒岩音楽教育研究会を主宰し、「1歳児からの音楽教室」、児童館などが開催する「親子リトミック」などの指導を行ってきた黒岩さんがウィリアムズ症候群の子どもたちの音楽指導を始めたのは15年ほど前のことだ。知人からの紹介で養護学校に通っている小学生の音楽指導を頼まれたのである。
「その時は、まだその子の病名もわかっていませんでしたが、なにしろ音楽が好きな子だという。それなら私でもしどうできるのではないかと、わりと軽い気持ちで引き受けました」
ところが、母親に連れられて黒岩さんのところにやってきた少年はテレビや玩具などに気を取られ、レッスンを受ける気持ちがなかなか持続しない。また、少年の父親も息子が歌を歌ったり、ピアノを弾いたりできるようになるとはまったく思っていないようだった。黒岩さんは少年のお気に入りのディズニーのビデオ『3匹のこぶた』の挿入歌「おおかみなんてこわくない」をピアノで弾き、いっしょに歌うことから始めた。
数年後、黒岩音楽教育研究会の発表会で少年はピアノの独奏を披露した。やさしい澄んだ音色は観客を魅了した。「このすばらしい愛をもう一度」も堂々と歌った。舞台の袖にいた黒岩さんがそっと客席を見ると、少年の両親が息子と一緒に歌っている。
「お父さんも声こそ出してはいませんでしたが、最後まで歌っていました。本当に胸がいっぱいになりました。音楽で変わるのは子どもだけじゃない。親も変わるんだと思いました。音楽の力を改めて感じましたね」
この少年との出会いがきっかけで、黒岩さんは泰生君の主治医である東京女子医大の松岡瑠美子医師と知り合いになった。そしてウィリアムズ症候群の子どもたちやその親たちとのつきあいが始まったのである。ちなみにこの頃すでにアメリカでは、ウィリアムズ症候群の人たちを対象とした音楽キャンプが開催されていたという。
(2008年10月)
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