J.C.Pウィリアムズ医師のミステリーに関する新たな情報
New Information Surfaces About The Mysterious Dr. J.C.P Williams
Heart to Heart, Volume 17 Number 3, September 2000, Pgae15-16
ニュージーランドウィリアムズ症候群協会が最近入手されたJ.C.Pウィリアムズ医師に関
する手紙を親切にも転送してくれました。手紙は彼の医師時代初め頃の同僚から送られた
もので、彼が失踪した謎を解き明かすものではありませんが、私たちの子どもの病気を初
めて記録した人の人となりを明らかにしてくれます。私たち同様、皆さんもこのお話に興
味があると思います。手紙の抜粋を掲載します。
...私は50年代にグリーンレーン病院(Greenlane Hospital)でジョン・ウィリア
ムズと供に働いていました。その当時、私は心臓外科が1948年に創設された以来ただ一人
の秘書で、たくさんの先天的心臓病の子どもたちに会うことができました。彼らは全員「特
別(special)」な子どもたちでした。私が勤めていた10年間ずっとジョン・ウィリアムズ
は心臓病記録係に任命されていました。彼が任命された日付を正確には覚えていませんが、
1964年頃まではこの仕事についていたと記憶しています(私は1959年に結婚退職しオー
クランド(Auckland)から転出しました)。
仕事上私はジョン(彼のフルネームは、ジョン・シプリアン・フィップス・ウィリアム
ズ:John Cyprian Phipps Williamsだったと思います)と一緒に働き、良い関係を築いて
いました。とても頭は良いがどちらかというと内向的な若者というのが彼の印象です。彼
は勤勉でひかえめな性格でした。身長は普通でしたがとても痩せていて脆弱な体格でした。
子どもが大きくなってパルマーストン北病院(Palmerston North Hospital)で再び働
き始めたときに、彼の研究分野に関するいい情報を伝えるために彼に連絡を取ろうとしま
したが、まったく連絡先がわかりませんでした。彼はニュージーランドにおける開業医登
録を停止していたので、私は(勘違いで)彼が亡くなったと思いました。というのも、普通
医者が外国に行ったり長期滞在する場合、ニュージーランドの医師登録を取り消すことは
まず無かったからです。不幸にも彼が免許を停止した時点のニュージーランド医師登録記
録のコピーを入手できませんでした。
E.H.ローシェ(E.H.Roche)医師が1983年に病院や診療科の歴書を記録して発表した
「グリーンレーン物語(Greenlane Saga)」の中に、彼のことがまったく記載されていない
ことを不思議に思いました。しかし、「心臓より(From the Heart)」(ブライアン・バレ
ット-ボーイズ卿(Sir Braian Barett-Boyes)の伝記)には、心臓病記録係としての「やせ
っぽち」ジム・ウィリアムズ(“Slim” Jim Williams)の記載があり、この病院の外科手
術に用いられた最初の人工心肺であるメルローズマシン(Melrose machine)操作の責任者
と紹介されていました。この当時私はまだグリーンレーンにいて、この機械の購入と1958
年ついに人体に適用されるまでに行われた機械の実験のことを鮮明に覚えています。これ
らのことから考えて、この書物に書いてある「やせっぽち」ジム・ウィリアムズは、実は
ジョン・ウィリアムズのことだと推測しました。この本には、「ジム・ウィリアムズは風
変わりな独り者で、仕事が向いていればとても良く働く。メルローズマシンの研究は彼に
合っていた。その後、イギリスに渡るまでメイヨークリニック(Mayo Clinic)で働き、コ
ンピュータシステムを開発した」と書いてあります。これが事実だとしら、そして私はそ
れを否定する証拠を持ち合わせていないので、ジョンは実際にメイヨークリニックにいた
のでしょう。ロンドンに置き去りにされた彼のかばん、そしてザルツブルグ(Salzberg)に
行く理由はまったくのミステリーであり、インターポールが彼の足跡を追跡できなければ
解明されないでしょう。
先ほど書いたように私から見ると彼は内向的だったので、自分自身の存在を消してし
まいたかった理由が何かあったのでしょう。事故にあった可能性もあります。でも、私た
ちには真相は決してわからない、と感じています。
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