ミステリーは続く : J.C.P Williams医師はどこにいるのか?



WSA(アメリカのウィリアムズ症候群協会)のニュースレターに掲載された記事です。ウィリアムズ症候群の名付親に関する謎のお話です。

(2002年8月)

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The Mystery Continues : Where is Dr. J.C.P Williams

(from the article, SOMETHING NOBODY COUNTED ON, By Michael King)
Heart to Heart, Volume 19 Number 2, May 2002, Pgae6-7

ジャネット・フレイム(Janet Frame)の伝記「Wrestling with the Angel(天使との格闘)」を書くための調査を行うなかで、著者のマイケル・キング(Michael King)はびっくりする事実を発見しました。友人からはジャック(Jack)と呼ばれ、我々はJ.C.P.Williamsとして名前を知っているニュージーランド人の心臓医ジョン・シプリアン・フィップス・ウィリアムズ(John Cyprian Phipps Williams)は元気に生存していて、放浪生活を送っています。

2001年4月、雑誌「LISTNER」の紙面で、家族でさえ知らなかったウィリアムズ医師が生きていることをキング氏がどのように知り得たのかを詳しく語りました。これまでに何回もお伝えしたように、ウィリアムズ医師は優秀なニュージーランド人の心臓病の研究者かつ心臓外科医で、有名なブライアン・バラット−ボイズ(Brian Barratt-Boyes)らと一緒にグリーンレーン病院(Greenlane Hospital)に勤めていました。 特筆すべきこととして、ウィリアムズは1961年にウィリアムズ症候群を発見しその定義をしたことで世界的に有名になりました。あまり知られてはいませんが、1969年に行方不明になる前、ウィリアムズはアメリカに来てNASAで働いていました(アポロ宇宙計画において体重の減少が循環器系に与える影響に関する研究をしていました)。キング氏がウィリアムズ医師のことを知ったのは、ウィリアムズ医師の失踪はジャネット・フレイムが彼のプロポーズを断った直後のことだったからです。この魅惑的な物語の一部をこれから紹介します。

『1969年、作家であるジャネット・フレイムがジョン・ウィリアムズのプロポーズを断った後、彼はロンドンにある自分のアパートから歩いて出て、そのまま消え去りました。家族や友人達は彼が殺されたか自殺したのだろうと考えました。彼が失踪したことはNASAで担当していた「機密扱い」の仕事に関係しているといううわさが広まっていました。外国勢力に誘拐されたのでしょうか? あるいは亡命? 状況はどうであれ、家族を含めてニュージーランドでは彼の声も聞いた人も、便りを受取った人もこの30年間誰1人としていません。

その後、フレイムの伝記が印刷に回される直前になって、私はウィリアムズが生きていてヨーロッパで隠遁生活を送っていることを知りました。彼は自分のことがジャネット・フレイムの本で取り上げられていることを知って困惑し、自分の名前を削除して欲しいというメッセージを手紙で送ってきました。この申し出には大変困りました。私が物語に書きこんだ、彼に関する情報はすべてウィリアムズ本人以外から入手した物です。本はタイプされページ校正の段階でした。4カ国の出版会社はずっと以前から決まっていたスケジュールに従って印刷と出版を始めるばかりになっていました。

そこで私は仲介者を通じてウィリアムズに手紙を書いて私の事情を説明し、彼に関して出版しようとしている文章のコピーを同封しました。その手紙で、彼の申し出に従って文章を変更する用意があること、また私が納得できるように名前を隠しつづけたい理由を説明してくれれば彼に関する一切の記述を物語から削除してもよいと書きました。その後何も連絡はありません。そのため、ウィリアムズに関する記述は当初のまま、まったく手をつけずに本は出版されました。私が知る限り、ウィリアムズはヨーロッパの何処かに隠れ住んでいます。

彼が生きていたことは、昔からの友人、家族(子どもの頃に会ったきりの甥がウェリントン(Wellington)に住んでいます)、そして世界中のウィリアムズ症候群サポート団体の会員達に多大な興味と心配を引き起こしました。フレイムの伝記が出版されると、これらの団体すべての代表者からもっと詳しく教えてほしいと連絡がありました。さらに一連のウィリアムズ症候群のつながりの最後にロサンゼルスの映画会社から電話がありました。

ディレクターが話した計画によれば、ウィリアムズ症候群の子どもとその家族を取り上げた映画を作り、同時にこの症候群の症状を同定して対処方法を提示した上品でカリスマ的なその男を取り上げる予定でした。この男は失踪したけれどもどこかに隠れて生きていたという事実は「この物語のアピールポイントとしてとても重要な部分だ」と、そのディレクターは私に語りました。俳優に対してアピールする部分はウィリアムズ症候群の性質です。「ハリウッドスターは障害者の役を演じることがとても好きです」と彼は請け合いました。「その役がアカデミー賞ノミネートに直結しているからです。」

ジャネット・フレイムの伝記の調査を行う中で、ジョン・ウィリアムズに関して興味を抱くに十分な情報を集めることができました。彼は1922年にウェリントンでスコットランドに端を発するけちで上品な一族の子どもとして生まれました。当時その一族は経済的にも社会的にも今より恵まれていました。

ジャック・ウィリアムズは聡明な学生であり、大叔母の援助を受けて学校に通いました。ビクトリア大学とオタゴ大学(Victoria and Otago Universities)で科学と芸術の単位をなんなく習得すると、シドニー大学(Sydney)で医学と化学の学位を取りました。40年代には平和運動で目立ったメンバーでもあり、これが縁でフランク・サーゲソン(Frank Sargeson)の友人で、後にウィリアムズをジャネット・フレイムに引き合わせることになるエリザベス・パドセイ・ドーソン(Elizabeth Pudsey Dowson)に出合いました。

1953年医学の学位を取得して卒業し、あちこちの病院に勤めた後、1956年から1962年まで7年間グリーンレイン病院にあるブライアン・バラット−ボイズの心臓病チームに加わります。心蔵手術を受けた子どもたちの多くがその他に共通する特徴も併せ持っていることに気がついたのはこのグリーンレインでした。似たような顔貌の特徴、特に大人とのお喋りが好きで外交的、様々な精神発達遅滞があるにも関わらず多くは音楽的な才能に恵まれている等です。ウィリアムズはこの共通の特徴が症候群を形作っているに違いないと推測しました。この発見は1961年に医学文献に発表され、ウィリアムズ症候群の子どもを持つ家族に多大な変化を与えました。

この新発見の重要性が認識された結果、ウィリアムズは1962年から1965年までメイヨー・クリニック(Mayo Clinic)に職を得て、NASAの機密プロジェクトに従事することになります。しかしこのプロジェクトに参加してすぐに彼は幻滅を感じるようになります。1日に20時間も働かねばならず、この仕事に就いて以来眠れないと友人に話しています。倒れてしまわないかと心配しました。その結果、彼はクリニックをやめ、ロンドンにあるユニバーシティ大学(University College)生理学部で心臓病研究を始めました。

1967年8月、ウィリアムズがロンドンで働いているときにジャネット・フレイムに会いました。二人の共通の友人で、その時までにニュージーランドからイギリスに帰っていたドーソンに引き合わされました。彼女が髄膜炎の回復期を過ごすための養生場所としてウィリアムズはセント・パンクラス(St.Pancras)にある自分のアパートを薦めました。フレイムは彼と7週間を過ごしました。その間二人は文学や音楽や劇のことを語り、普段は内気な二人はお互いの人となりがとても気に入りました。

2年後、フレイムはまたセント・パンクラスでウィリアムズと一緒に暮らし、お互いがとてもよく気が合うことを再認識しました。そして、ウィリアムズは彼女にプロポーズ(婚姻届を出さないか?)しました。フレイムは荒れました。彼女はそのようなことを考えてもいなかったし、それを望んでもいませんでした。フレイムは怖くなり、ノーフォーク(Norfolk)にあるドーソンの別荘に逃避しました。2週間後、彼女がセント・パンクラスのアパートに戻った時には、ウィリアムズの影も形もありませんでした。

フレイムは楽しみにしていたギリシャへのバカンスにちょっと早めに出かけたのだろうと考えていました。しかし、それ以後ロンドンでもニュージーランドでも家族や友人の前に姿を見せませんでした。フレイムにも彼からの連絡はありません。兄弟姉妹は彼の行方を探してインターポールに捜索願を出しました。インターポールはウィリアムズがオーストラリアのザルツブルグに居た形跡を発見しました。しかし足跡はそこで途絶えました。彼を知る人の中には、ベルンやジュネーブで彼を見かけたという人もいましたが、確認されていません。兄弟姉妹は彼の消息を知らないまま亡くなりました。

そして、30年後に物語の重要な後半が残っていました。ジャネット・フレイムは彼が死んだと思っていました。プロポーズをしたあと一度も連絡をしない人がいるなどとは信じられなかったからです。私も彼女の調査を行い伝記を書くなかで同じように考えました。このプロジェクトの終盤になって2つの突発事件の噂が聞こえてきました。ウィリアムズが失踪してから10年後、彼はジュネーブでニュージーランドの自分のパスポートを更新していたことを知りました。そして、2000年1月、フレイムの伝記が印刷される直前になって、我々の共通の友人を通してウィリアムズから電子メールが届きました。

ジョン・ウィリアムズに本の関連する部分のコピーを送って彼のコメントを求めて連絡を取ろうと試みたのは、後者の手がかりを通じてでした。私の依頼に対する直接の応答はありませんでしたが、仲介者を通じて1通の電子メールを受取りました(そのメールは、私が送った本のコピーを見る前に発信されていました)。「本の中で自分のことを取り上げて欲しくありませんし、脚注の項目にもしないでください。ジャネット・フレイムとの関係も書かないでください。彼女のプライバシーを最大限尊重して欲しいと思うと同時に、私にも同様の考慮をお願いします。」

彼が絶対に名前を出したくない理由の説明がない以上、私は彼の申し出には応えられないと感じました。結果的に、彼はジャネット・フレイムにプロポーズした二人の男性のうちの一人でした。その出来事は30年以上も前の話であり、彼女に関する正当な伝記を書くためには彼の事を書かないことなど考えられません。

私は今年アメリカでウィリアムズがアポロ計画で行った仕事に関する資料を集めようと考えています。1998年に私が電話でメイヨー・クリニックに連絡を取った時、電話で応対してくれた担当者はとでも協力的で、1962年から1965年までウィリアムズが確かにそこで働いていたことを確認してくれました。正式の質問状を書くだけで、さらに詳しい情報を入手できるはずでした。

3月、前回クリニックに電話したことを引用して質問状を作成しました。今回の返答には、「あなたが書かれた状況には興味を引かれ、力になりたいと思います。しかし、(ウィリアムズ医師)の雇用状況に関する確認事項以外の情報はご提供できません」と書かれていました。この返答を見た時、ジョン・ウィリアムズが生きていて、彼の当然の権利としてクリニックに対して情報を開示しないように依頼した、と私は感じました。

そして、事態はまた動きました。私個人としてはこれ以上ウィリアムズ医師を追跡しません。わたしは戦慄を感じながら彼が映画の大きなスクリーンに登場するのを待っています。そして、可能ならばその可能性に道筋をつけたことを彼に謝ろうと思っています。しかし同時に、彼自身が創りだし今も継続しているミステリーがあるからこそ、そのような帰結になったと彼に伝えたいとも考えています。JD・サリンジャー(JD Salinger)やトーマス・ピンコーン(Thomas Pynchon)やジャネット・フレイムがそうであったように、スポットライトを浴びないように努力すればするほど、自分への興味を引きつけることになるのです。エイリーン・クモウ(Alien Cumow)は次のような注意を喚起しました。ジョン・ウィリアムズも気付いているように、彼の物語の残りの部分は誰も予想しない異なる方向へ進むでしょう。』

WSAはこの話が出てから現在までにハリウッドにいる3名のディレクターにコンタクトをとりました。しかし、今の所映画は具体化されていません。今も続いているJ.C.P.ウィリアムズ医師に関するミステリーに関する情報は今後もお伝えします。



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